2020年5月24日日曜日

2020年5月24日(ルカによる福音書20:20〜47)

ルカによる福音書20:20~47
「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、明らかにしている。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」
もう20年くらい前になると思いますが、アメリカの教会でWWJDと書いてあるアクセサリーがはやりました。What Would Jesus Do?という言葉の頭文字です。イエスさまはどうなさったのか、イエス様ならどうするのか、といった意味でしょうか。最初にそういう話を聞いたとき、私はああなるほど、それは大切な考え方だなと思いました。迷ったときに、イエスさまだったらどうなさったのかということを自分の行動の指針にできたら良いなと思いました。
しかし、しばらくして私と同じ教会の仲間、彼はアメリカの大学で学んでいて一時帰国をしていたときでしたが、その友達がそのアクセサリーに反論をしていました。イエスさまだったらどうしたのかというのは、まるでイエスさまが過去の世界の住人であるかのようだ。むしろ、あのWWJDという合い言葉は、Walk With Jesus Daily(イエスさまと一緒に日々歩んでいこう)の頭文字だと考えている。そんなことを言っていました。私は、今は彼の言ったことの方が正しいと思っています。主イエス・キリストは2000年前にいた偉人で、この方の模範を意識して、それを再現する。それがイエスを信じて生きるということではありません。今生きておられるキリストと、私たちは共に歩んでいきます。キリストは、今日も生きて働いておられます。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」主イエス・キリストは、そのように言われます。私たちは神によって生きているから、神は死んだ者ではなく生きている者の神!私たちは、今日というこの日を今生きておられる神と共に歩んでいきます。
45節以下に、人から重んじられたい、立派な人だと思われたい、それなのに実のところ弱者を食い物にしている人への厳しい裁きの言葉が語られています。神がここにおられる、今日も私と共にいてくださるということを、本当にリアリティを持って信じていたらできない振る舞いです。しかし、実際にここに指摘されている罪は自分の姿そのものとしか言いようがないと私は自分について思います。だからこそ、今生きて働いておられるキリストの憐れみにすがり、主の御前に進み出て、このお方を礼拝したいと願います。罪の赦しを、今日新しく頂くために。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...