2020年5月28日木曜日

2020年5月28日(ルカによる福音書22:47〜71)

ルカによる福音書22:47~71
十二人の一人のユダは、接吻によってイエスを裏切りました。イエスを捕らえようと画策している者たちを連れてきて自分が接吻する者がイエスだと打ち合わせてあったのです。もちろん私たちの文化が持つ接吻の意味と彼らのそれとは全然違います。私たちで言えば、握手して挨拶するということでしょうか。明らかに普通の挨拶よりも、もっと親しい挨拶です。仲間と交わす挨拶です。その最大級の親愛の情をもってすることによって、ユダはイエスを裏切りました。
シモン・ペトロは、捕らえられたイエスの後についていって、イエスが連行された大祭司の家の中庭に入りました。しかしそこで召使いの女から「この人も一緒にいました」と言われ、「あんな人など知らない」と言います。同じようなやりとりを三度も重ねました。そして、三度目にイエスを否んだとき、鶏が鳴き、向こうの方でイエスが振り向いて彼を見つめるのと目があいました。そして、ペトロは主イエスから「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われていたことを思い出し、外に出て、激しく泣きました。
ペトロは自分を守るためにイエスを捨てました。もしかしたら、それは私たちにはありふれたことであるのかも知れません。自分のために仲間を捨てる。大なり小なり、私たちにも身に覚えがある。自分の損得のために、仲間を裏切る。自分が、誰かのために損得を完全に超えた仲間になれるかと言われると、正直に言って怯んでしまいます。
最大級の親愛の挨拶をもってイエスを裏切ったユダ。自分のために仲間であったはずのイエスを切ったペトロ。それは、私自身の姿です。
しかし、主イエス・キリストは、こんな私を捨てないでいてくださいます。マタイが伝えてるところによると、ユダはこの後自殺してしまいました。主イエスが十字架にかけられたのは、その直後のことです。まるでユダを追うようにして陰府に降って行かれます。ペトロに対しては、主イエスはあらかじめ祈っていてくださいました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたがたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:31~32)」。
私たちが主イエスを捨てても、主イエスは私たちを捨てないでいてくださいます。これが、キリストが私たちに告げてくださった福音です。キリストの赦しの中で、私たちは立ち直り、再び隣人・仲間として生きることができるのです。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...