2020年5月29日金曜日

2020年5月29日(ルカによる福音書23:1~25)

ルカによる福音書23:1~25
「私はあなたがたの前で取り調べたが、訴えられているような罪はこの男には見つからなかった。」・・・しかs、人々は一斉に、「その男は連れて行け。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは都で起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「一体、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった。」

礼拝になると、使徒信条を唱えます。「(イエス・キリストは)ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ」と私たちは告白しています。主イエス・キリストはポンテオ・ピラトというローマから派遣された総督の権威の下で十字架刑を執行され、殺されました。しかし、そのピラト自身が言うのです。「一体、どんな悪事を働いたのか。この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった」と。
ピラトがどうしようもなく偏った裁判をしたとか、殆ど裁判らしい裁判がなかったというのではありません。イエスを訴える者たちの言い分を聞き、イエスご自身にそれを質しても、ピラトにはイエスを十字架にかけるだけの理由を見つけることができませんでした。その代わり、まったく何の理由も言うことができずに、ただ狂ったように人々が「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ。謂わば、ピラトはその世論に与したのです。イエスの十字架はポピュリズムの成果です。
主イエス・キリストは何の罪も犯していませんでした。それなのに、十字架での磔といういちばんの重罪人のための極刑に処せられました。何の理由がなくともイエスを十字架につけようと大衆が望んだからです。ピラトの取り調べの時に、ピラトはイエスに「お前はユダヤ人の王なのか」と問いました。更に正しくは神の国の王と言うべきでしょう。イエスは、真の王です。しかし、私たち大衆は真の王である方ではなく、暴動と殺人のかどで死刑になるはずだったバラバを生かすことを願いました。神さまが私たちの王であることを拒んで、バラバを選んだのです。
キリストは十字架へと向かっていきます。私たちのために。私たちに代わって。そして、私たちに追い詰められて。十字架にかけられた王キリストを、今日も、私たちは仰ぎます。

2024年5月8日の聖句

(主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。(詩編40:4) あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。(エフェソ4:23) 主が、新しい歌を授けてくださった。すてきな言葉です。「主に、新しい歌を」とは言っていません。主が私の口に新しい歌を授けてくださった...