2020年5月31日日曜日

2020年5月31日(ルカによる福音書24)

ルカによる福音書24
エマオ村に向かう二人の弟子たち。これは、主イエスが復活した日の午後から夕方にかけての出来事です。暗い顔をして歩いていた二人に、復活のイエスが近づいてきます。二人の顔が暗くなったのは、イエスが十字架につけられたからではありません。もちろんそれもあるでしょうが、それ以上に、「イエスは生きておられる」という天使の知らせを仲間の女たちが墓から持ち帰ったことに戸惑い、顔が暗くなったのです。
「イエスは生きておられる。」この知らせは、私たちを戸惑わせ、私たちの顔を暗くするニュースだ、と聖書は言います。いいニュースのはずが、聞くものを戸惑わせ、顔を暗くさせるニュースになってしまう。それは、「イエスは生きておられる」という知らせが、信仰の性質を変えてしまうからなのだと思います。
私たちにとって、エマオに向かうあの二人にとって、信仰の主体は信じる私です。別の言い方をすれば、自分の人生の主語は「私」です。私はこうしたい、私はこう生きていきたい、私は悲しい、悔しい、うれしい、楽しい。私の人生の主語は「私」以外ではありえない。当然です。しかし、「イエスは生きておられる」という知らせは、私の人生の主語を「私」から「キリスト」に変えてしまいます。今生きておられるキリストと共に歩む人生が始まるからです。あの二人が、エマオに向かってイエスと歩き始めたように。
ここでイエスは、暗い顔をした二人を説得するために「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」。あるいは、この後エルサレムにいる弟子たちのところに現れたときにも、「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する」と言います。主イエスは、聖書からご自分について語っている言葉を私たちに聞かせます。
「イエスは生きておら得る」。この福音を私たちにもたらすのは、聖書の御言葉です。私たちはこの「イエスは生きておられる」という知らせを聞く日として神が定めてくださった主の日、日曜日を迎えました。主の御前に進み出ましょう。エマオへと一緒に歩いて旅をしてくださったキリスト、弟子たちのところに現れて、不信仰に実を埋める彼らを説得するために魚まで召し上がったキリストが、私たちと共にいてくださいます。「イエスは生きておられる」という、この復員船源に私たちが聞き、私たちがこの福音に生きる者となるために。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...