2020年6月12日金曜日

2020年6月12日(使徒言行録8:26〜40)

使徒言行録8:26~40
フィリポはエルサレムからガザに下るさみしい道で一人のエチオピア人の高官と出会いました。彼は聖書を読んでいました。イザヤ書第53章です。「彼は、屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。誰が、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。彼の命は地上から取り去られるからだ。」この高官は、この不思議な言葉は預言者自身のことなのか、誰か他の人のことなのか、その意味を測りかねていたのでした。
なぜ、彼はこの言葉に興味を持ったのでしょうか。彼は聖書を読んでいた。そうは言っても、2000年前の話です。今私たちが手にしているようなコンパクトな一冊の本ではありません。預言者イザヤの書だけで大きな巻物だったに違いない。この人は女王の高官でしたから、そのような特別な、高価なものを手にしていたのでしょう。食い入るように読んでいたのだと思います。第53章まで読み進めて、立ち止まった。きっと、イザヤ書が伝えるこの言葉が目にとまったのだと思います。「誰が、その子孫について語れるだろう。」なぜなら、彼は宦官だったからです。
彼は思ったのではないでしょうか。自分と同じ痛みを知っている人がいるのか、と。この言葉は、この預言者自身のことを言っているのか、それとも、他の誰かなのか。彼の疑問は机上の話ではありません。この私と同じ痛みを知っている人は一体誰なのか、という切実な問いです。フィリポは、この聖書の言葉から、主イエス・キリストの話を宦官に聞かせたのでした。
聖書が私たちに伝えているのは、主イエス・キリストの話です。キリストを私たちに証言します。そのお方は、私たちの痛みを負い、私たちの傷を担ってくださったお方です。聖書は、「キリストという文脈」によって読むことが大切です。これを無視すると、思わぬ誤読が起きてしまう。
例えば、旧約聖書にはこのようにあります。「睾丸の潰れた者、陰茎の切り取られた者は、主の会衆に加わることはできない。(申命記23:2)」これを文字通りに読めば、宦官は排除されてしまいます。しかし、他の所では、「宦官も言ってはならない。『見よ、私は枯れ木だ』と。主はこう言われる。宦官が私の安息日を守り、私の喜ぶことを選び、私の契約を固く守っているならば、私の家と城壁の中で、私は、息子、娘にまさる記念のしるしと名を与え、消し去れることのないとこしえの名を与える。(イザヤ書56:3~5)」私たちの痛みを負ってくださった方は、ご自分を信じる宦官をお喜びになります。主イエスには何の差別も偏見もない。キリストは私のために痛みを負ってくださった。だから、フィリポは彼にすぐに洗礼を授け、この人は神を信じ、キリストと共に生き始めたのです。

2024年4月23日の聖句

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