2020年9月28日月曜日

2020年9月28日(テモテへの手紙二2)

テモテへの手紙二2
「私たちは、この方と共に死んだのなら
この方と共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら
この方と共に支配するようになる。
私たちが否むなら
この方も私たちを否まれる。
私たちが真実でなくても
この方は常に真実であられる。
この方はご自身を
  否むことはできないからである。」

恐らく、当時の教会で歌われていた賛美歌なのだろうと思います。深く私たちの心に残る、本当に素晴らしい賛美歌です。どういうメロディだったのかが分かればどんなにか素敵であったかと思いますが、しかし一番大切な歌詞を共有して、心を合わせられるのは本当にしあわせなことです。
主イエス・キリストへの愛と信仰に生きる幸いを見事に歌っています。特に、パウロはこの言葉を地で生きるような人でした。「この方と共に死んだのなら」と言っています。この賛美歌が引用される直前に、パウロは「この福音のために私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」と言っています。文字通りに、パウロの面前に死が迫っていた。パウロはもうしばらくすれば殉教します。しかし「この方とともに死ぬ」というのは、そういう意味だけではないと思います。私たちは洗礼を受けるときに、一度死にます。洗礼はもともとは水に沈めて授けていました。水に沈められるというのは、そこで死ぬということです。水に沈められた者はもう一度自ら出て来る。新しい命の象徴です。私たちの教会で頭に水を振りかけて洗礼を授けますが、意味は全く同じです。さらに、頭にかけられる水は、降ってきた聖霊の象徴でもある。私たちは神の霊によって新しい命に生きる。それが「新しい命」である以上、以前の私は死んだということになる。私たちはキリストともに死に、キリストと共に生きるのです。
私たちの新しい生は、キリストの真実に頼っています。私たち自身の真実ではない。むしろ、私たちの内を探しても真実など見つかりはしないでしょう。そうであっても、キリストの真実が変わってしまうことはありえない。だから、私たちは耐え忍ぶことができるし、キリストを否むことなく生きていきます。ここに、私たちの命をつなぐ水脈があるからです。

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