2020年9月27日日曜日

2020年9月27日(テモテへの手紙二1)

テモテへの手紙二1
「私が手を置いたことによってあなたに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい。神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。ですから、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、苦しみを共にしてください。」

パウロからテモテへの手紙は、新約聖書には二通収おさめられています。この第二の手紙は、パウロの殉教からあまり遠くない時期、謂わば晩年の手紙であると考えられています。その頃、パウロはローマで囚人でした。そして、パウロがこの時囚われの身であったという事実は、若き同志テモテにとっても少なからぬ意味を持っていたようです。
テモテがパウロが囚われの身であることを知って奮起した、ということではありません。むしろ意気阻喪した。臆病になってしまった。何かのきっかけで、それまでの信仰の火がふっと消えてしまうようなことは、多くの人が経験するのではないかと思います。あのときの燃え立つ思いは一体何だったのか。どうしても元気に信じる意欲がわかない。あるいは、迫害であってもほかの理由があるにしても、怖くなってしまって、これ以上神を信じたり、教会に行ったりすることができなくなってしまう・・・。テモテは、この時まさにそういう状態だったようです。
パウロはテモテに向かって、もっと根性を出せとは言いませんでした。自分を奮い立たせろとか、自己啓発に励めとは言いませんでした。かといって、あなたにはあなたの道があるから、好きに選べば良いとも言いませんでした。「あなたに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい」と言います。神の賜物です。「賜物」というからには、それは神が与えてくださったものです。自分の中にある何らかの元気の素ではない。神の与えてくださったものに気付け、というのです。そして、それは臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だと言う。自分の内側にある自分の才能を探すなら、臆病の霊しか見つからないかもしれません。しかし、神が、力と愛と思慮の霊を与えてくださった。この「霊」とは、神ご自身の霊、つまり聖霊以外には考えられません。神ご自身の力、愛、思慮が、私たちの内に宿っていることにパウロは気づかせるのです。
だから、パウロが囚人であることを恐れないでほしいとパウロは言います。何者も恐れないでほしい。むしろ、神があなたに与えてくださった賜物のゆえに安心し、喜んでほしい。それがパウロがテモテに、そして私たちに望んでいることではないでしょうか。私たちには必ず意気阻喪してしまうときがあるのです。だからこそ、神が私にしてくださっていることに、私たちの両目を向けましょう。

2024年4月23日の聖句

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