2020年10月1日木曜日

2020年10月1日(テトスへの手紙1)

テトスへの手紙1
「清い人には、すべてが清いのです。しかし、汚れた不信仰な者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。」

テトスへの手紙は、健全な信仰に生きるよう私たちに勧めます。健全な信仰とは何か。とても具体的に、否定的な表現で書いてあります。「わがままでなく、すぐに怒らず、酒に溺れず、乱暴でなく、恥ずべき利益を貪らず、客を手厚くもてなし、善を愛し、慎みがあり、正しく、清く、自制心があり、教えに適った信頼すべき言葉をしっかり守る人」。そこまで言われると、少し怯んでしまいます。しかし、私がこれまで共に生きてきたたくさんの先輩キリスト者たちのことを考えると、まさにそういう人が何人もいました。若造の私の言葉に怒らずに、忍耐して耳を傾けてくださったこと、ご自身の生活を律して生きておられたこと、祈りに真剣でいらしたこと、そのようなお姿を思い浮かべることができる先輩が何人もいます。
健全な信仰が自分にはないと悩むよりも、実際にそれに生きている人を思い起こし、私も同じ信仰の末席にいると思いをいたすことができるのは、本当に幸いなことです。
この手紙で、パウロは、私たちが神を信じて実際にどう生きるのかということを真剣に問い、私たちに語りかけています。信仰は、実生活に関係の無いむなしい言葉だけの世界のことではなく、生き方に健全さをもたらす私たちの生きる指針です。
清い人には、すべてが清いとパウロは言います。キリストを信じ、敬虔に、誠実に生きるなら、生活のいろいろな場面で自分は合っているのか間違っているのかとビクビクする必要は無くなる。キリスト信仰は私たちの生き方を健全にします。キリストを真似て生きるからです。私たちは言葉では嘘をつけても、行いでは嘘をつけません。私は自分の偽善を見せつけられていると思います。しかし、キリストは私たちの生き方、行いを清めてくださいます。私たちを新しくすることがおできになるのは、この方だけなのです。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...