2020年11月15日日曜日

2020年11月15日(ヨハネによる福音書18:1~27)

ヨハネによる福音書18:1~27
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないだろうな」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「お前が園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

今朝の箇所は、主イエスがキドロンの谷の向こうにある園でユダが連れてきた祭司長やファリサイ派の下役に捕らえられ、その時にシモン・ペトロが剣でマルコスという人の耳を切り落とし、そして大祭司のところでイエスがその舅から尋問されたことを伝えています。そして、イエスが取り調べを受けていたのとまったく同じ時に、ペトロが同じ大祭司の中庭で、ある出来事に遭遇していたということを伝えています。
周囲の喧噪や混乱と、ただ一人静かにしておられるキリストとの鮮やかな対比が描かれている箇所であると思います。その中でも特に、やはりペトロとの対比が鋭く伝えられています。
最初、ペトロはイエスを逮捕しようとユダが率いてきた下役たちに力づくで対抗しようと剣を手に取り、切りつけました。わざわざ耳を切られた者の名前まで書かれています。イエスが逮捕されて大祭司の所に連行されていくとき、ペトロは当初そこに居合わせることができませんでした。もう一人の弟子のお陰で敷地内に入ることができた。ところがイエスが裁判にかけられているその脇で、シモン・ペトロは自分がイエスの弟子であるということを否定したのです。
そこには、ペトロが園で片耳を切り落としたマルコスの身内の者がいました。ペトロは怖かったと思います。その怖さを埋め合わせるために、ペトロはイエスの弟子であるという事実を否定したのです。ただイエスお一人だけが、この時を堂々と、そして淡々と過ごしておられたように思います。
それは「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」というご自身の祈りが実現するためであった。すなわち、このイエスの静けさは、私たちのための静けさです。私たちのために、すべてを甘んじて受けいれてくださったのです。

2025年7月2日の聖句

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