2020年11月28日土曜日

2020年11月28日(ヨハネの手紙二)

ヨハネの手紙二
「よく気をつけて、私たちが働いて得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。先走って、キリストの教えにとどまらない者は皆、神を持っていません。その教えにとどまっている人は、御父と御子とを持っています。」

この手紙を書いたヨハネやこの手紙を最初に受け取ったキリスト者たちが生きていた環境と、私たちが今生きている環境とでは、違う所もたくさんありますが似ている所も多くあるのではないかと思います。何よりもよく似ているのは、ヨハネたちも私たちも、共に異教社会の中に生きているということです。むしろ、聖書の信仰こそ異教と言った方が状況にふさわしいかもしれません。私たちも彼らも圧倒的にマイノリティです。この社会は誰もキリストを信じてなどいないのです。
そういうときに、「先走って、キリストの教えにとどまらない」ということが起きてしまう。あまり「キリスト、キリスト」と狭く考えない方が良いのではないか、ほかにもいい話を聞ける場所はたくさんあるのではないか。社会そのものがキリストを知らない以上、私たちの信仰は常に良心的に排除されます。
しかし、ひとたびキリストと出会った私たちがキリストの教えにとどまらないのは先走った、誤った判断だと長老ヨハネは言います。もっともらしい言葉に惑わされずに、もっとよく腰を落ち着けて考えなければならない。本当に確かなのは、キリストなのではないか。本当に私たちを神と出会わせてくださるのは、キリストなのではないか。
ただそれは、独善的に自分たちこそ真理を知っていると心をかたくなにするということではないと思います。何しろ、キリストの戒めは「互いに愛し合うこと」です。偏狭で独善的な心では「互いに」愛し合うことはできません。キリストはただお一人真実な方であるのに、私たちのところに来て、私たちよりも先に愛してくださった。そこからすべてが始まるのではないでしょうか。
私たちに互いを愛する愛をくださるのは、キリストです。私たちはそのことを信じています。だからキリストに、愛するための愛を願い求める。そして私たちが愛に生きるならば、私たちはへりくだって隣人の愛を信頼し、キリストが私の内に生きて働いて愛をもってこの私を生かしてくださっていることを喜ぶのです。

2025年4月4日の聖句

主は私たちを再び憐れみ、私たちの罪をことごとく、海の深みに投げ込まれる。(ミカ7:19) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) なんてありがたい御言葉なのでしょうか。主は私たちを憐れんでく...