2020年11月8日日曜日

2020年11月8日(ヨハネによる福音書12:1~19)

ヨハネによる福音書12:1~19
「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。」

ベタニア村での出来事です。ここにはマルタとマリア、そしてラザロの一家の住まいがありました。「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」。一家にとって今回の主イエスの出来事は、本当に忘れることのできないものになったはずです。病のために死んだラザロを主イエスが甦らせてくださった。マルタは本当に心を込めて主をお迎えし、ごちそうを準備したことでしょう。主イエスへの愛のもてなしをしたに違いありません。
ラザロは主イエスと一緒に食事の席に着いていました。どんな感謝の言葉を伝えていたのでしょうか。そして、ここにはもう一人、主イエスのために愛を込めてもてなした人がいる。マルタの妹のマリアです。「その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りで一杯になった」。巻末の度量衡を見ると、一リトラは約326グラム。香油としてはかなりな量なのではないかと思います。しかも、ただの香油ではなく「純粋で非常に高価なナルドの香油」と書いてあります。ユダは300デナリオンで売れると言います。労働者の年収に相当するような額です。マリアにとっては、あるいは家族にとって、文字通りの宝物だったに違いない。その香油をマリアは惜しげもなく主イエスの足に注ぎかけました。そして、自分の足でそれを拭った。マリアの主イエスへの愛、そして弟を救ってくださったことへの言葉にならないほどの感謝が伝わってきます。
ところが、何でそんなことをしたのかユダには理解できませんでした。ラザロの復活の場面に一緒にいたはずなのに。金に換えて貧しい人に施せば良いと言いますが、結局は一同の旅の資金をごまかしていたという自分の不正が背景にあっての言葉に過ぎなかったようです。ユダにとって、愛は金に勘定できるものでした。愛は自分の不正を隠蔽するという動機の前に意味を持ちませんでした。しかしマリアは、あるいはマルタも同じですが、イエスへの愛はお金には換算できず、自分の真心をもってお返しすべきもの、そのために自分の宝を差し出すほどのものだったのです。
主イエスはマリアの愛を受け止め、マリアのしたことにご自分の埋葬のための準備だという新しい意味を付してくださいました。私たちの小さな愛をもキリストは受け止め、主イエスさまのための業として、新しい意味を与えてくださいます。主がお喜びくださるのは、純粋な主イエス・キリストへの愛に他ならないのです。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...