2020年11月7日土曜日

2020年11月7日(ヨハネによる福音書11:45~57)

ヨハネによる福音書11:45~57
「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」

ヨハネによる福音書を読んでいると、季節の変化が分かります。例えば、7:2に出てくる「仮庵祭」は秋の祭りです。10:22には「その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」と書いてあります。さらに今日の第11章の55節には「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた」とありますが、これは春分に祝われる祭りです。
今挙げた季節の移り変わりは、恐らく同じ一年の中の出来事です。秋から冬になり、やがて春を迎える。この春の過越祭のとき、イエスは十字架にかけられることになります。そうやって「時」が迫ってきている中で、主イエスを取り巻く状況について告げているのが今日の聖書の御言葉です。
「祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を招集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになるそして、ローマ人が来て、我々の土地も国民も奪ってしまうだろう。』」彼らがそう言うと、大祭司カイアファは「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言います。こうして、イエスを殺すということが最高法院の共通見解になったのです。「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」
秋から冬、そして春を迎えるにあたって高まったのは、イエスへの殺意です。イエスへの憎しみです。なぜ、そこまで憎まれたのか。最終的なきっかけになったのは、ラザロの復活の出来事です。主イエスはラザロに命を与えた。ラザロだけではなく信じる者には誰にでも命を与えると宣言した。そのために、イエスは憎まれ、殺されようとしている。命の言葉をはっきりと継げたとき、イエスご自身が殺されることになった。聖書はそう証言しています。
従って、カイアファの言葉は本人の意図とはまったく違うところで真実になりました。「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む」。まさに、私たちはたった一人のイエス・キリストが私たちに代わって死んで、私たちは滅びないで済んだのです。神様の不思議な御業が、ここに起こりました。

2024年4月16日の聖句

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