2021年1月22日金曜日

2021年1月22日(詩編26)

詩編26
主よ、私を調べ、試してください。
私の思いと心を確かめてください。(2節)
私は空しい者と共に座らず
欺く者と共に進まず
悪をなす者の集いを憎み
悪しき者と共に座りませんでした。(4~5節)
主よ、私はあなたの住む家を
あなたの栄光の宿る所を慕います。(8節)

1節では「主よ、私を裁いてください」と言っています。私を調べ、試し、私の思いと心を確かめてください。そのように神さまに願い出ています。どのような意味での裁きを求めているのかと言えば、自分が誰と共に生きてきたのか、誰を頼りに生きてきたのかを調べてください、と言っています。
すなわち、自分は空しい者、欺く者、悪をなす者、悪しき者と共に生きてくることはなかった。むしろ神の家に生きてきたし、神の栄光を求めて生きてきた。その点を確かめてください、と祈っています。
この詩編は、読むととても厳しい気持ちになると思いました。神さまと共に生きるのか、空しい者と共に生きるのか、どちらか一つだと言っています。どちらにもいい顔をすることはできない。それがこの詩編のスタンスだと思います。そうは言っても八方美人な方が楽です。しかし、この詩編の言葉は、一度よく耳を傾けて聞かなければならない言葉なのだと思います。私たちは神を愛するのか、神に逆らう者を愛するのか、どちらなのでしょうか。

私は全き道を歩みます。
私を贖い、憐れんでください。(11節)

「私は全き道を歩みます」と言っていますが、ここでは「他の人はどうあれ私は」といったニュアンスで、「私は」を強調した書き方になっています。そういうことができたのは、神が私を贖ってくださったこと、憐れんでくださったことを知っているからです。だからこそ、贖い、憐れんでくださいと祈ることができる。
私たちは独善的になって気にくわない人を遠ざけるのではなく、ただ神の憐れみへ帰り、神の御許に私の生きることのできる場所があることを深く知りたいと願います。私たちを生かす神の憐れみへの道は、私たちの前に開かれています。

2024年4月24日の聖句

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