2021年1月24日日曜日

2021年1月24日(詩編28)

詩編28
主をたたえよ。
主は嘆き祈る私の声を聞かれた。
主はわが力、わが盾。
私の心は主に信頼し
私は助けられ、心は喜び躍る。
私は歌を献げて主に感謝する。
主こそ、その民の力。
油注がれた者の救いの砦。(6~8節)

神さまは必ず私たちの嘆き祈る声を聞いてくださいます。私たちの祈りを憶えていてくださいます。それが私たちの祈りの確信です。整った祈りの言葉が出て来ないとき、たった一言「神さま」とお呼びして二の句を継ぐことができないとき、神さまは必ずその声を聞いてくださいます。そして私たち以上に私たちを知って、言葉にならない思いをも覚えて、私たちの祈りを受け止めてくださいます。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。神さまに向かって私たちが祈るならば、たった一言でも神さまを呼ぶならば、あるいはそれが言葉にならなかったとしても神を求めるならば、それは私たちが神の子であることの証しです。神を「父よ」とお呼びする神ご自身の霊が、私たちの中で叫んでいる。
「油注がれた者の救いの砦」と詩編は言っています。油注がれた者。油を注ぐという習慣そのものは私たちは持っていませんが、私たちの言葉で言い直すならば、これは神の霊を受けた者ということであろうと思います。聖霊によって神を父と呼んで祈る者。神はその人のための救いの砦になってくださいます。いや、神が私たちのための救いの砦でいてくださることに、祈る者は気づくのです。神はこの私をもすでに救ってくださっていたのだ、と。
だから、私たちは主をたたえ、主に信頼し、神さまの救いの御業を賛美します。キリストによって示された神の愛をほめたたえます。このお方が私たちの救いの砦でいてくださるからです。

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