主を仰ぎ見る人は輝き
辱めに顔を伏せることはない。
苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き
あらゆる苦難から救ってくださった。(6から7節)
主を仰ぎ見る人は輝いている!これは、私たちのための言葉です。私たちも輝いている。主を仰ぎ見ているからです。辱めを受けていても、苦しんでいても、苦難の中にいても、そこから主を仰ぎ見るなら、私たちは輝いています。
かつて、出エジプトのときのことです。モーセがシナイ山で神さまから十戒を頂いて山から下りたとき、モーセの顔の肌が光を帯びていたことがありました。(出エジプト記34:29~35)神さまの栄光を映すような輝きに人々は彼に近づくことを恐れました。主を仰ぐ者はモーセと同じように輝きます。神さまの栄光を映す輝きを帯びる。辱めは、別の言葉で言えば「顔に泥を塗られる」ということですが、どんな泥を塗られても神を仰ぐ者の輝きを覆い尽くしてしまうことはできません。神さまの栄光の光が輝いているからです。
実際にそういう信仰に生きたキリスト者は無数にいると思います。私の母教会にいたある男性は、以前事故に遭って障害を負い、いろいろと不自由な生活を送っておられました。学生の頃、私は日曜日の夕ご飯は牧師館で頂いていましたが、その席で毎週お目にかかっていました。とても優しい方で、私のような青年たちから慕われていました。神さまの輝きを映し出しておられました。もう何年も前に亡くなりましたが、忘れ得ぬキリスト者です。
味わい、見よ、主の恵み深さを。
幸いな者、主に逃れる人は。(9節)
この言葉は、聖餐のたびに思い出す言葉です。主の恵み深さを、私たちは聖餐で実際に味わう。私が高座教会で出会ったあの人、神さまのご栄光の輝きを映し出していたあの人も、やはり聖餐で味わう主の恵み深さに生かされていたのだと思います。そして、この輝きは私たち自身の輝きでもあるのです。神さまが私たちの内に生きて、その輝きを私たちに映し出してくださっているからです。
辱めに顔を伏せることはない。
苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き
あらゆる苦難から救ってくださった。(6から7節)
主を仰ぎ見る人は輝いている!これは、私たちのための言葉です。私たちも輝いている。主を仰ぎ見ているからです。辱めを受けていても、苦しんでいても、苦難の中にいても、そこから主を仰ぎ見るなら、私たちは輝いています。
かつて、出エジプトのときのことです。モーセがシナイ山で神さまから十戒を頂いて山から下りたとき、モーセの顔の肌が光を帯びていたことがありました。(出エジプト記34:29~35)神さまの栄光を映すような輝きに人々は彼に近づくことを恐れました。主を仰ぐ者はモーセと同じように輝きます。神さまの栄光を映す輝きを帯びる。辱めは、別の言葉で言えば「顔に泥を塗られる」ということですが、どんな泥を塗られても神を仰ぐ者の輝きを覆い尽くしてしまうことはできません。神さまの栄光の光が輝いているからです。
実際にそういう信仰に生きたキリスト者は無数にいると思います。私の母教会にいたある男性は、以前事故に遭って障害を負い、いろいろと不自由な生活を送っておられました。学生の頃、私は日曜日の夕ご飯は牧師館で頂いていましたが、その席で毎週お目にかかっていました。とても優しい方で、私のような青年たちから慕われていました。神さまの輝きを映し出しておられました。もう何年も前に亡くなりましたが、忘れ得ぬキリスト者です。
味わい、見よ、主の恵み深さを。
幸いな者、主に逃れる人は。(9節)
この言葉は、聖餐のたびに思い出す言葉です。主の恵み深さを、私たちは聖餐で実際に味わう。私が高座教会で出会ったあの人、神さまのご栄光の輝きを映し出していたあの人も、やはり聖餐で味わう主の恵み深さに生かされていたのだと思います。そして、この輝きは私たち自身の輝きでもあるのです。神さまが私たちの内に生きて、その輝きを私たちに映し出してくださっているからです。