詩編37
主の前に沈黙し、主を待ち望め。
成功の道を行く者
謀を遂げる者に怒りを燃やすな。
怒りを解き、憤りを捨てよ。
怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。
悪をなす者は絶たれ
主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ。(7~9節)
この詩編には何度も「悪しき者」という言葉が繰り返されています。悪しき者が自分をひどく苦しめ、そのために今私は嘆き、心は動転している。悪しき者は破滅を語り、策略を練って私を苦しめる。そしてその悪さのために成功を収め、謀を巡らしてうまくやっている。私は神に向かい、悪を避け、善を行いたい。そして苦しんでいます。
しかし、この詩編は、私たちがそれでもなお神の前に静まり、神に祈り、神に助けを求めることの幸いを教えます。「成功の道を行く者、謀を遂げる者に怒りを燃やすな」と言います。もっと価値あることがある。だから悪しき者にこだわらずに、沈黙して主の前に進み出よ、と言うのです。
怒りを燃やすなというのは、悪しき者のことは神さまに任せてしまえということなのだろうと思います。私たちには自分の目から見たら歪んだ生き方をしている人や赦せない人、自分のことを傷つける人や一緒にいるのが辛い人もいるのではないかと思います。ひどく傷つけられることもある。でも、私たちはその人から自由になることができると聖書は言います。神さまに、その人の取り扱いはお任せするのです。
「主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ」(11節)と言います。主イエスも、この詩編の言葉を繰り返し耳にし、暗唱しておられたに違いないと思います。主イエスご自身の説教の言葉にこの詩編も影響を及ぼしていたのではないかと思います。主は言われます。「へりくだった人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」へりくだったという言葉は、新共同訳では「柔和な」でした。私たちがへりくだり、柔和でいられるのは、主に望みを置くからです。主が私の人間関係の苦しみからも解放してくださる。主が救ってくださる。その事実から、私たちのへりくだりが、柔和が始まります。
主の前に沈黙し、主を待ち望め。
成功の道を行く者
謀を遂げる者に怒りを燃やすな。
怒りを解き、憤りを捨てよ。
怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。
悪をなす者は絶たれ
主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ。(7~9節)
この詩編には何度も「悪しき者」という言葉が繰り返されています。悪しき者が自分をひどく苦しめ、そのために今私は嘆き、心は動転している。悪しき者は破滅を語り、策略を練って私を苦しめる。そしてその悪さのために成功を収め、謀を巡らしてうまくやっている。私は神に向かい、悪を避け、善を行いたい。そして苦しんでいます。
しかし、この詩編は、私たちがそれでもなお神の前に静まり、神に祈り、神に助けを求めることの幸いを教えます。「成功の道を行く者、謀を遂げる者に怒りを燃やすな」と言います。もっと価値あることがある。だから悪しき者にこだわらずに、沈黙して主の前に進み出よ、と言うのです。
怒りを燃やすなというのは、悪しき者のことは神さまに任せてしまえということなのだろうと思います。私たちには自分の目から見たら歪んだ生き方をしている人や赦せない人、自分のことを傷つける人や一緒にいるのが辛い人もいるのではないかと思います。ひどく傷つけられることもある。でも、私たちはその人から自由になることができると聖書は言います。神さまに、その人の取り扱いはお任せするのです。
「主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ」(11節)と言います。主イエスも、この詩編の言葉を繰り返し耳にし、暗唱しておられたに違いないと思います。主イエスご自身の説教の言葉にこの詩編も影響を及ぼしていたのではないかと思います。主は言われます。「へりくだった人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」へりくだったという言葉は、新共同訳では「柔和な」でした。私たちがへりくだり、柔和でいられるのは、主に望みを置くからです。主が私の人間関係の苦しみからも解放してくださる。主が救ってくださる。その事実から、私たちのへりくだりが、柔和が始まります。