2021年2月16日火曜日

2021年2月16日(詩編54 )

詩編54
見よ、神はわが助け。
わが主は私の魂を支える人々の中におられる。(6節)

私の魂を支えてくれる人たち、その中に私を助けてくださる神がおられる。本当にすばらしい言葉だと思います。ある牧師が言っていたのですが、一人ではできないことが二つある。一つは結婚すること、もう一つは神さまを信じること。そのように言っていました。結婚するのでも誰かと友達になるのでもお互いの背中を流し合うのでもよいかもしれませんが、相手がいないとできないこと、独りぼっちでは不可能なことがあります。神さまを信じることもその一つだ、と言うのです。
しかし聖書を読むことは一人でできるし、意味が分からなくてもよい解説本もあります。却って煩わしい人間関係に巻き込まれないで済むし、一人で神さまの前に立つということを考えると、教会などない方が本当だと言えば言えそうな気もします。
しかし、この詩編を読むとそういう考え方は間違いだと分かります。私たちは神の助けを、私の魂を支えてくれる人たちとの出会いを通して経験します。教会がキリストの手として私を支え、私のよろめく足を取って共に歩く足になり、私の魂を救ってくださる。
この十年ほど、絆という言葉がはやり、もはや消費され尽くした感があります。そこで言われていた絆という言葉は、絆が失われている現実を覆い隠すような美辞麗句だった気もします。実際のところ地域コミュニティは失われ、社会的な意見の相違や経済的な格差による分断は年を追うごとに激化しました。先般の米国大統領選挙でも「分断」ということが繰り返し指摘されていましたが、分断については米国よりも日本の方が先を行っていると思います。絆という言葉を消費しながら、何を間違えてしまったのでしょうか。
北九州でホームレス支援をしている奥田牧師は、絆という言葉には「傷」が含まれると言っています。絆を結ぶというのは相手の抱えている傷を一緒に負うことだ、と。相手の厄介事に一緒に傷つくことだと言うのです。それは美辞麗句では済まないことです。しかし、そうやって一緒に傷つく関わりの中で、私たちは神の助けを経験するのです。
私は小さな人間ですし、高潔でもないですから、つい相手にばかりその「傷」を求めてしまいます。私のためにどうして傷ついてくれないの、と。しかしキリストは、私にそういう要求はなさらずに私を引き受け、傷ついてくださいました。そして、私を囲む教会が、その傷を負ってくれた。そうやって、私は神の助けと救いを体験しました。

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