詩編46
「静まれ、私こそが神であると知れ。
国々に崇められ、全地において崇められる。」
私たちには心が騒ぎ立つことが度々起こります。穏やかでいられないとき、恐ろしくなってしまうとき、不安で仕方なくなってしまうことがあります。そんな私たちに、神さまがおっしゃいます。「静まれ、私こそが神であると知れ」と。
この詩編の冒頭を見るとこのようなことが書かれています。
神は我らの逃れ場、我らの力。
苦難の時の傍らの助け。
それゆえ私たちは恐れない
地が揺らぎ
山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。
その水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶる様に山々が震えるとも。(3~5節)
「静まれ、私こそが神であると知れ。
国々に崇められ、全地において崇められる。」
私たちには心が騒ぎ立つことが度々起こります。穏やかでいられないとき、恐ろしくなってしまうとき、不安で仕方なくなってしまうことがあります。そんな私たちに、神さまがおっしゃいます。「静まれ、私こそが神であると知れ」と。
この詩編の冒頭を見るとこのようなことが書かれています。
神は我らの逃れ場、我らの力。
苦難の時の傍らの助け。
それゆえ私たちは恐れない
地が揺らぎ
山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。
その水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶる様に山々が震えるとも。(3~5節)
例え地が揺らぐときにも、山々が海の中に移るときにも、神が私の逃れ場、私の力。そのように宣言します。主イエスさまのお言葉を思います。ガリラヤ湖で船の上にいた弟子たち。主イエスは舟の艫の方で枕をして寝ておられた。舟は激しい突風のために水浸しになっていました。弟子たちはイエスを起こし、私たちが溺れても構わないのですかと訴えます。するとイエスは風を叱って言われたのです。「黙れ、静まれ」と。(マルコ4:35~41)。本当は、寝ていたのは弟子たちの信仰です。イエスがそこにおられることを見失っていた。「黙れ、静まれ」という言葉は風や波を静める言葉でもありますが、騒ぎ立つ弟子たちの心を静める言葉でもあります。
私たちの乗る船を襲う波や風、あるいは絶対に変わることはないと思い込んでいた大地が揺らぎ、しかも主イエスは眠りこけていて祈っても答えが聞こえてこないというとき、神さまは私たちを見捨ててしまったのでしょうか?
神さまは「静まれ。私こそが神であると知れ」と言われます。私たちを襲う嵐よりも、揺らぐ大地よりも確かなのは、神さまであり、キリストです。このお方は眠っているのではないか、私の祈りなんて聞いていないのではないか、そのようなことは思い込みに過ぎません。勘違いです。目を覚ましましょう。キリストはこの舟におられます。「静まれ」と言ってくださるのです。私たちの今日一日の歩みにも、この御声が響いています。
私たちの乗る船を襲う波や風、あるいは絶対に変わることはないと思い込んでいた大地が揺らぎ、しかも主イエスは眠りこけていて祈っても答えが聞こえてこないというとき、神さまは私たちを見捨ててしまったのでしょうか?
神さまは「静まれ。私こそが神であると知れ」と言われます。私たちを襲う嵐よりも、揺らぐ大地よりも確かなのは、神さまであり、キリストです。このお方は眠っているのではないか、私の祈りなんて聞いていないのではないか、そのようなことは思い込みに過ぎません。勘違いです。目を覚ましましょう。キリストはこの舟におられます。「静まれ」と言ってくださるのです。私たちの今日一日の歩みにも、この御声が響いています。