2021年3月20日土曜日

2021年3月20日(詩編89)

詩編89
主よ、いつまでなのですか。
永遠に隠れておられるのですか。
憤りはいつまで火のように燃え続けるのですか。(47節)

この詩編は前半と後半とでほとんど正反対の印象を受けます。最初は神さまへの高らかな賛美から始まります。「主よ、天はあなたの奇しき業を、聖なる者の集いであなたのまことをたたえます(6節)」。天が神をたたえる。それだけではありません。「あなたは荒れ狂う海を治め高波が起こるとき、これを鎮めます。・・・天はあなたのもの、地もまたあなたのもの。世界とそこにみちるものはあなたが礎を築いたもの(10,12節)」。天だけではなく海も、大地も、神が治めておられる。
日本は歴史的に海の恵みに支えられた生活をしてきたこともあって「豊穣の海」というイメージがありますが、聖書ではしばしば「海」が混沌の象徴として描かれています。ここでもそうです。11節にはラハブという名前が出てきますが、第87編にも出てきたとおり、神話上の怪物の名前です。この詩編では海がラハブと並ぶ混沌の象徴、つまり人間社会の混乱や悲惨、あるいはそれらを生み出す罪の象徴であるのだと思います。
しかし、20節以降、神さまがダビデを選び出し、彼に示した慈しみを民全体に与えてくださった、ということが書かれている。時に私たちは神の前に過ちを犯し、神に背いてしまうけれども「それでも、私の慈しみを彼から取り去らず、私のまことに背くことはしない。私は契約を汚さず、唇から出た言葉を換えはしない(34~35節)」。
そして、39節以降が後半です。神さまはかつてダビデを通して変わることのない慈しみを示してくださった。しかし今はそれが退けられてしまったかのように私は苦しんでいる。「主よ、いつまでなのですか」と訴えるのです。この祈りは私たちにもよく分かります。かつては私に向けてくださっていた神の慈しみが見えない、神はもう私のことなどどうでもいい、憎んでおられる・・・。
さらに訴えます。「わが主よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた、かつての慈しみはどこにあるでしょうか(50節)」。かつての慈しみを、神さま思い出してくださいと訴える。この詩編は私たちにとっては、ダビデの家に生まれた主イエス・キリストを思い起こすものとして読むことがふさわしいと信じます。主イエス・キリストによって示された慈しみを、神さま今私にもう一度見せてください。私たちはそう祈ります。そうであるならば、私たちはどんなに自分が見捨てられたとしか思えない現実の中にあっても、私に変わって神に捨てられ、陰府にまで降られたイエス・キリストが私を見捨てるということはありえないとなお信じることができます。キリストにあって、私は神に捨てられることはないと私たちは信じることができるのです。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...