2021年3月21日日曜日

2021年3月21日(詩編90)

詩編90
私たちの日々はあなたの激しい怒りに
  ことごとく過ぎ去り
私たちは吐息のように年月を終える。
私たちのよわいは七十年。
健やかであっても八十年。
誇れるものは労苦と災い。
瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。(9~10節)

永遠から永遠へ。神さまの果てしない大きさ、偉大さ。それに打ちのめされ、自分のこれまでの人生を振り返ったとき、自分の犯した罪の数々に震える。私は例え長生きをしたとしても七十年、八十年・・・しかし神さまの目には「千年といえど過ぎ去った一日のよう」であって、比べるべくもない。神さまの前に立ち得ない。それだけではなく、自分自身の人生の前にも立てない。神さまの怒り、憤り、それらを過ぎ去らせることなどできず、安心して死ぬことなどできない。
あなたの怒りの力を誰が知りえよう。
あなたを畏れるほどに
  その激しい怒りを知っていようか。(11節)

今日からしばらくの間、日曜日の礼拝ではヨハネが伝えるラザロの復活の出来事に耳を傾けます。とてもいろいろなことを考えさせられる出来事です。キェルケゴールはこの記事に導かれて『死に至る病』を書きました。ドストエフスキーの『罪と罰』のとても大切な位置を、このラザロの復活の出来事が占めています。それだけ問いかけることの多い事件です。思えば、キェルケゴールもドストエフスキーも、このラザロの出来事と対話をしながら罪の問題を問い続けました。『死に至る病』が問題にする絶望も、『罪と罰』のラスコーリニコフに象徴される罪も、ラザロを復活させるキリストの声によらなければ解決しません。私たちのこれまで生きてきた歩みが積み上げてしまった罪の数々は、もう自分ではどうすることもできない。神の怒りの前にただ恐れるしかないのです。

私たちはキリストにあって、こう祈ることができます。
「主よ、帰って来てください。いつまでなのですか。
あなたの僕らを憐れんでください。
朝には、あなたの慈しみに満たされ
すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように」(13~14節)。
キリストは、私の罪がどんなに高く積み上がっていても、すべてを引き受けてくださいます。私たちは小さく、儚く、神の怒りの前に消えてしまう虫けらのようなものです。しかし、キリストがそのような私を愛し、神の憐れみを私に届けてくださったのです。

2024年12月26日の聖句

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