2021年3月25日木曜日

2021年3月25日(詩編94)

詩編94
民の中の愚かな者よ、気付くがよい。
無知な者よ、いつになったら悟るのか。
耳を植えた方が聞かないとでも言うのか。
目を造られた方が見えないとでも言うのか。
国々の民を懲らしめる方が
人に知識を教える方が
責めたてないことがあろうか。
主は知っておられる、人の思いを
その空しいことを。(8~11節)

神さまの裁きを告げる言葉が語られています。そして「気付くがよい」と呼びかけています。裁きにおいて、神さまが私たちに気付いてほしいと呼びかけておられるのです。
神さまの裁きは、歴史の中で起こるさまざまな出来事や悲しみの中で経験されます。私たち人間が企む悪をそのまま放置しておく、人間の好きにさせておくということ自体がすでに神の裁きであるということだと思います。例えば今回のパンデミック一つを考えてみます。病気自体は人間がつくり出したものではありませんが、その後の混乱の多くは私たち人間自身に起因するところが大きい。人間は慌てふためいています。そうであるならば、私たちはこの出来事の中で一体どのような神さまの語りかけを聞くのでしょうか。
この詩編は私たち人間の傲慢を指摘しています。耳を植えた方があたかも聞こえないかのように振る舞っていないか、目を造った方がまるで見えないかのように好きかってしていないか。一言で言えば、神を嘗めてはいないか。私たちがこれまで当たり前に教授してきた安心安全便利快適な生活は、他の誰かを犠牲にした上で成り立っていたのかもしれません(6節)。これまでのような消費主義的な、あるいは欲望の達成を善として目指すような社会ではもう保たないことが、この一年で十分すぎるほど明らかになりました。私たちは、今、神さまの呼びかけをどのように聞き取り、それに従うのでしょう。
「まことに、主はその民を見放さず
ご自分の民を見捨てられない。」
この神さまの憐れみの中、神さまの御許に立ち帰る道を、へりくだって歩んでいきたいと切に願います。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...