詩編95
さあ、主に向かって、喜び歌おう。
救いの岩に喜びの声を上げよう。
感謝のうちにその前に進み
賛美と共に喜びの声を上げよう。
まことに主は大いなる神
すべての神々にまさる偉大な王。
地の深みもその手の内にあり
山々の頂きも主のもの。
海も主のもの。主が造られた。
その手は乾いた地を形づくられた。(1~5節)
私たちにとって神を賛美することは、大きな喜びです。礼拝の醍醐味は、地の深みも、山々も、海も、乾いた地もお造りになった方、この世界の王でいらっしゃるかたを賛美することです。私たちの目を天に向け、遙か偉大な方を仰ぎ、私たちは賛美をします。
私たちは小さい。存在としても、できうることも、知恵も、すべてにおいて小さなものです。8節に「メリバの水」や「マサ」という言葉が出てきます。メリバというのは「争い」という意味で、マサというのは「試し」という意味の言葉です。どちらも同じ場所を意味する地名でもある。出エジプト記17:1~7に出てきます。出エジプトをしたヘブライ人たちが荒れ野で飲み水がないと不平を言い、神がモーセによって岩から水を出したという奇跡が起こった場所です。さらに民数記20:1~13にもメリバでの出来事が書かれていますが、ここに書かれている一件のためにモーセは約束の地(カナン)に入ることができなくなってしまった、という大きな出来事です。神さまを試みるというのは、繰り返し私たちに起こる誘惑です。私たちは小さく、そしてそれだけではなく、罪深い者です。
しかし、私たちは自分のそのような卑小さを見つめて絶望するのではなくまことに賛美されるべき方にこの目を向けることが許されています。私たちは自分の惨めさにのめり込まないで済むのです。礼拝は、共に神を賛美する営みです。今は大きな声で讃美歌を歌うことはできません。しかも一節しか歌えない。しかし、私たちの賛美の心にはいささかも変わるところがありません。さあ、主に向かって、喜び歌いましょう。救いの岩に喜びの声を上げましょう!
さあ、主に向かって、喜び歌おう。
救いの岩に喜びの声を上げよう。
感謝のうちにその前に進み
賛美と共に喜びの声を上げよう。
まことに主は大いなる神
すべての神々にまさる偉大な王。
地の深みもその手の内にあり
山々の頂きも主のもの。
海も主のもの。主が造られた。
その手は乾いた地を形づくられた。(1~5節)
私たちにとって神を賛美することは、大きな喜びです。礼拝の醍醐味は、地の深みも、山々も、海も、乾いた地もお造りになった方、この世界の王でいらっしゃるかたを賛美することです。私たちの目を天に向け、遙か偉大な方を仰ぎ、私たちは賛美をします。
私たちは小さい。存在としても、できうることも、知恵も、すべてにおいて小さなものです。8節に「メリバの水」や「マサ」という言葉が出てきます。メリバというのは「争い」という意味で、マサというのは「試し」という意味の言葉です。どちらも同じ場所を意味する地名でもある。出エジプト記17:1~7に出てきます。出エジプトをしたヘブライ人たちが荒れ野で飲み水がないと不平を言い、神がモーセによって岩から水を出したという奇跡が起こった場所です。さらに民数記20:1~13にもメリバでの出来事が書かれていますが、ここに書かれている一件のためにモーセは約束の地(カナン)に入ることができなくなってしまった、という大きな出来事です。神さまを試みるというのは、繰り返し私たちに起こる誘惑です。私たちは小さく、そしてそれだけではなく、罪深い者です。
しかし、私たちは自分のそのような卑小さを見つめて絶望するのではなくまことに賛美されるべき方にこの目を向けることが許されています。私たちは自分の惨めさにのめり込まないで済むのです。礼拝は、共に神を賛美する営みです。今は大きな声で讃美歌を歌うことはできません。しかも一節しか歌えない。しかし、私たちの賛美の心にはいささかも変わるところがありません。さあ、主に向かって、喜び歌いましょう。救いの岩に喜びの声を上げましょう!