詩編110
主は、私の主に言われた。
「私の右に座れ
私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」(1節)
この詩編110は新約聖書で何度か言及されている詩編です。それだけ重んじられていたということだろうと思います。しかも、主イエスを預言する言葉として聞かれた詩編です。
主イエスご自身がこの詩編を引用しながら、「ダビデがメシアを主と呼んでいる」と指摘しました。つまり、メシアはダビデに先立つ存在だと言われた。主イエスの神の子キリストとしての御性質を表す言葉として、この詩編が紹介されています。
もう一つ新約聖書でこの詩編が決定的な意味を持つのが、ヘブライ人への手紙です。この詩編を引用しながら、このように言っています。
神は、かつて天使たちの誰に向かって、こう言われたでしょうか。
「私の右に座れ
私があなたの敵を
あなたの足台とするときまで。」
天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。(ヘブライ1:13)
ヘブライ人への手紙では天使にまさる存在としての神の御子を語り、それが主イエスであると訴えます。神はこの御子を通して世界をお造りになった。だから、御子は神の右におられ、この世界を支配しておられる。この詩編を手がかりに、この手紙はイエスの御支配を明らかにします。
さらに、詩編に戻って4節にこのようにある。
主は誓い、悔いることはない。
「あなたは、メルキゼデクに連なる
とこしえの祭司。」
この祭司メルキゼデクもヘブライ人への手紙で大切にされる存在です。5:6でこの言葉が引用され、第7章でメルキゼデクについて論じられています。細かなことは省きますが、メルキゼデクという存在を通して、主イエスが私たちを祭司として永遠に支配するということを書いている。
このようにこの詩編は、主イエスが私たちの王として、あるいは祭司として、私たちを神のものとして支配するということを理解するために大切な意味を持った詩編です。私たちの信じるキリストは、まさにここで言われている「私の主」に他ならないのです。
主は、私の主に言われた。
「私の右に座れ
私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」(1節)
この詩編110は新約聖書で何度か言及されている詩編です。それだけ重んじられていたということだろうと思います。しかも、主イエスを預言する言葉として聞かれた詩編です。
主イエスご自身がこの詩編を引用しながら、「ダビデがメシアを主と呼んでいる」と指摘しました。つまり、メシアはダビデに先立つ存在だと言われた。主イエスの神の子キリストとしての御性質を表す言葉として、この詩編が紹介されています。
もう一つ新約聖書でこの詩編が決定的な意味を持つのが、ヘブライ人への手紙です。この詩編を引用しながら、このように言っています。
神は、かつて天使たちの誰に向かって、こう言われたでしょうか。
「私の右に座れ
私があなたの敵を
あなたの足台とするときまで。」
天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。(ヘブライ1:13)
ヘブライ人への手紙では天使にまさる存在としての神の御子を語り、それが主イエスであると訴えます。神はこの御子を通して世界をお造りになった。だから、御子は神の右におられ、この世界を支配しておられる。この詩編を手がかりに、この手紙はイエスの御支配を明らかにします。
さらに、詩編に戻って4節にこのようにある。
主は誓い、悔いることはない。
「あなたは、メルキゼデクに連なる
とこしえの祭司。」
この祭司メルキゼデクもヘブライ人への手紙で大切にされる存在です。5:6でこの言葉が引用され、第7章でメルキゼデクについて論じられています。細かなことは省きますが、メルキゼデクという存在を通して、主イエスが私たちを祭司として永遠に支配するということを書いている。
このようにこの詩編は、主イエスが私たちの王として、あるいは祭司として、私たちを神のものとして支配するということを理解するために大切な意味を持った詩編です。私たちの信じるキリストは、まさにここで言われている「私の主」に他ならないのです。