2021年4月27日火曜日

2021年4月27日(詩編119:17~24)

詩編119:17~24(ギメル)
たとえ高官たちが座し、私に何を言ったとしても
あなたの僕はあなたの掟を思い巡らします。(23節)

この言葉を読んで、私は内村鑑三不敬事件を思い出しました。1891年、第一高等中学校の教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式で天皇の御名に対して最敬礼をしていなかったということで非難を受け、社会問題化し、その後内村は依願退職することになりました。各界でさまざまな反響を呼び起こした大事件でした。日本キリスト教会の牧師である植村正久がこの事件について意見を表明しています。「吾人は新教徒として、万王の王なるキリストの肖像にすら礼拝することを好まず」、「何故に今上陛下の勅語にのみ礼拝をなすべきや」。つまり、プロテスタント教会は徹底してマリア像もキリストの像も、聖人の肖像も排しているのに、なぜ天皇の勅語に礼拝しなければならないのか、と問います。そして、内村を糾弾するこの時代の精神に対して、このように言います。「吾人の良心を試練するの出来事」という文章からの言葉です。

こうした風潮は、「憲法にも見えず、法律にも見えず、教育令にも見えず、ただ当局者の痴愚なる、頭脳の妄想より起こりて、陛下を敬するの意を誤り、教育の精神を害」するするものであり、「かかる弊害を駁撃せざるを得ず、これを駁撃するのみならず、中学校より、また小学校より、これらの習俗を一掃するは国民の義務なりと信ずるなり」、「事の大小こそ異なれ、運動会等の申し合わせと毫も異なることなく、まったく校長その他自余の人々の頭脳より勝手に案出せるものに過ぎざるなり。」

今朝の私たちに与えられた聖句では、「高官」と言われていますが、国家的権力者でも世間でも、あらゆる力のもとは同じです。そのような権威が何を言おうとも、私は神とその御言葉だけを礼拝する。この詩編も、植村も、また内村も、その信仰に立っていたのではないでしょうか。
その根拠は「私はこの地では寄留者です」という19節の言葉に言い表されていると思います。私たちは寄留者。天の故郷を目指す旅人です。この世界では仮住まいに過ぎません。だから、本国である神の国の国民として、この世界にあってただ神だけを礼拝して生きていくのです。

2024年12月26日の聖句

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