詩編119:25~32(ダレト)
私の魂は塵の中に伏しています。
あなたの言葉どおりに私を生かしてください。(25節)
私の魂は悲しみのあまり溶けてしまいそうです。
あなたの言葉どおりに私を立ち上がらせてください。(28節)
「私の魂」という言葉が繰り返されています。魂というのは、どこかに浮かんでいる人魂のようなもののことではありません。ヘブライ語のネフェシュという単語です。息とか喉、あるいは命といった意味もあります。ここでの喉というのは、基本的には渇いた喉、砂漠で渇き、カサカサになった喉を指すそうです。聖書で「魂」というのは、もろくて弱い人間としての存在を表す言葉です。
魂である私が、塵の中に伏している。悲しみのあまり溶けてしまいそうになっている。もともともろくて弱い存在ですが、悲しみの中でなおのこと弱り果て、自分では立ち上がることができないほど傷ついている。それがこの詩編です。
そのようなとき、この詩編が求めているのは「あなたの言葉どおりに私を生かしてください」ということです。神さまがその御言葉によって宣言した救いの約束の通りに私を生かしてください、と祈ります。そうでなければ、立ち上がることができないのです。
今日の箇所では、最後に「あなたの戒めの道を走ります。あなたが私の心を広げてくださるからです」と言っています。とっても良い言葉です。悲しみ、塵に伏すようなとき、私たちの心は狭いところに閉じ込められて、息苦しくなってしまいます。そういう狭くなってしまった心が広がるのは、神さまの戒めの道を走るとき、私を生かしてくださる神さまの言葉に従うとき。この詩編はそのように言っているのです。
これは大いなる解放の言葉であると思います。私たちは、悲しくて悲しくて仕方ないとき、塵の中に倒れて自分では立ち上がれないとき、自分の根性でどうにかしなくてよいのです。神さまの御言葉に耳を傾けて、そこで宣言されている福音を信じて受け取ればよい。それが私たちの救い。圧迫された私たちの心を広くするのです。悲しみに沈む私への確かな慰めは、キリストが父とお呼びする神さまが与えてくださいます。
私の魂は塵の中に伏しています。
あなたの言葉どおりに私を生かしてください。(25節)
私の魂は悲しみのあまり溶けてしまいそうです。
あなたの言葉どおりに私を立ち上がらせてください。(28節)
「私の魂」という言葉が繰り返されています。魂というのは、どこかに浮かんでいる人魂のようなもののことではありません。ヘブライ語のネフェシュという単語です。息とか喉、あるいは命といった意味もあります。ここでの喉というのは、基本的には渇いた喉、砂漠で渇き、カサカサになった喉を指すそうです。聖書で「魂」というのは、もろくて弱い人間としての存在を表す言葉です。
魂である私が、塵の中に伏している。悲しみのあまり溶けてしまいそうになっている。もともともろくて弱い存在ですが、悲しみの中でなおのこと弱り果て、自分では立ち上がることができないほど傷ついている。それがこの詩編です。
そのようなとき、この詩編が求めているのは「あなたの言葉どおりに私を生かしてください」ということです。神さまがその御言葉によって宣言した救いの約束の通りに私を生かしてください、と祈ります。そうでなければ、立ち上がることができないのです。
今日の箇所では、最後に「あなたの戒めの道を走ります。あなたが私の心を広げてくださるからです」と言っています。とっても良い言葉です。悲しみ、塵に伏すようなとき、私たちの心は狭いところに閉じ込められて、息苦しくなってしまいます。そういう狭くなってしまった心が広がるのは、神さまの戒めの道を走るとき、私を生かしてくださる神さまの言葉に従うとき。この詩編はそのように言っているのです。
これは大いなる解放の言葉であると思います。私たちは、悲しくて悲しくて仕方ないとき、塵の中に倒れて自分では立ち上がれないとき、自分の根性でどうにかしなくてよいのです。神さまの御言葉に耳を傾けて、そこで宣言されている福音を信じて受け取ればよい。それが私たちの救い。圧迫された私たちの心を広くするのです。悲しみに沈む私への確かな慰めは、キリストが父とお呼びする神さまが与えてくださいます。