詩編103
天が地よりも高いように
主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしいのぐ。
東が西から遠いように
主は私たちの背きの罪を遠ざける。(11~12節)
「私の魂よ、主をたたえよ」と、この詩編の最初と最後に書かれています。主をたたえよ、と自分自身の魂に語りかける。自分の存在の内奥、そのいちばん深いところから、神を賛美します。
なぜ神を賛美するのか、ということがとてもはっきりした詩編です。「主はあなたの過ちをすべて赦し、あなたの病を癒やす方」。私たちの過ちや罪。神がそれを赦してくださる。そのことを賛美しています。罪は、まるで病気のように私たちの存在に食い込みます。最初から「どうせできもしない」と諦めるのではなく、本気で罪を退け、キリストに倣って生きようとするならば、私たちは本当に深い挫折を味わわざるを得ない。何か聖書の言葉を、たった一つでも本気でそれに生きようとするならば、自分がいかにキリストから遠く離れているかをまざまざと見せつけられます。一体どうしたら私たちは罪から自由になることができるのか。
神に赦して頂く以外の道はないのではないでしょうか。主の慈しみは、天が地よりも高いように、私たちを遙かにしのぎます。主は、私たちを背きの罪から遠ざけてくださいます、東が西から遠いほどに。私たちの心がけや努力ではなく、神さまが私たちから試みを去らせてくださる。だから、私たちも新しくなることができるのです。
私たちは、弱くてもろい一人の人間に過ぎません。「主は私たちが造られた様を知り、私たちが塵に過ぎないことを覚えておられる。」私たちは草のように枯れ、消えてなくなる儚い存在です。「しかし、主の慈しみは、いにしえからとこしえまで主を畏れる者の上に」あるのです。私たちは弱いですし、何よりも罪深いです。しかし、神さまはそのような私たちに慈しみを見せてくださいます。
だから、神を賛美しようとこの詩編は呼びかけます。私たちも、心を合わせて言いましょう。「私の魂よ、主をたたえよ」と。時には自分の思いや感情に逆らってでも。キリストからの罪の赦しの圧倒的な福音宣言を、時に私たちが実感できず、納得できず、喜べなかったとしても。それでも神はもうすでに私たちを赦してくださっています。だから、主をたたえましょう。私の魂よ、主をたたえよ!
天が地よりも高いように
主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしいのぐ。
東が西から遠いように
主は私たちの背きの罪を遠ざける。(11~12節)
「私の魂よ、主をたたえよ」と、この詩編の最初と最後に書かれています。主をたたえよ、と自分自身の魂に語りかける。自分の存在の内奥、そのいちばん深いところから、神を賛美します。
なぜ神を賛美するのか、ということがとてもはっきりした詩編です。「主はあなたの過ちをすべて赦し、あなたの病を癒やす方」。私たちの過ちや罪。神がそれを赦してくださる。そのことを賛美しています。罪は、まるで病気のように私たちの存在に食い込みます。最初から「どうせできもしない」と諦めるのではなく、本気で罪を退け、キリストに倣って生きようとするならば、私たちは本当に深い挫折を味わわざるを得ない。何か聖書の言葉を、たった一つでも本気でそれに生きようとするならば、自分がいかにキリストから遠く離れているかをまざまざと見せつけられます。一体どうしたら私たちは罪から自由になることができるのか。
神に赦して頂く以外の道はないのではないでしょうか。主の慈しみは、天が地よりも高いように、私たちを遙かにしのぎます。主は、私たちを背きの罪から遠ざけてくださいます、東が西から遠いほどに。私たちの心がけや努力ではなく、神さまが私たちから試みを去らせてくださる。だから、私たちも新しくなることができるのです。
私たちは、弱くてもろい一人の人間に過ぎません。「主は私たちが造られた様を知り、私たちが塵に過ぎないことを覚えておられる。」私たちは草のように枯れ、消えてなくなる儚い存在です。「しかし、主の慈しみは、いにしえからとこしえまで主を畏れる者の上に」あるのです。私たちは弱いですし、何よりも罪深いです。しかし、神さまはそのような私たちに慈しみを見せてくださいます。
だから、神を賛美しようとこの詩編は呼びかけます。私たちも、心を合わせて言いましょう。「私の魂よ、主をたたえよ」と。時には自分の思いや感情に逆らってでも。キリストからの罪の赦しの圧倒的な福音宣言を、時に私たちが実感できず、納得できず、喜べなかったとしても。それでも神はもうすでに私たちを赦してくださっています。だから、主をたたえましょう。私の魂よ、主をたたえよ!