2021年5月12日水曜日

2021年5月12日(詩編119:137〜144)

詩編119:137~144(ツァデ)
主よ、あなたは正しく
あなたの裁きはまっすぐです。(137節)
私は取るに足りない者で、侮られていますが
あなたの諭しは忘れません。(141節)

日本語訳では分かりにくいですが、この詩編では二回だけ、人称代名詞がはっきりと登場してきます。それが137節と141節。137節では「あなた」と主なる神様をお呼びしています。141節では詩編作者である「私」が登場しています。その他の節でも日本語訳では人称代名詞がたくさん登場していますが、ヘブライ語は主語の人称によって動詞のかたちが変わるので、人称代名詞が省略されても誰が主語なのかがすぐに分かります。逆に、人称代名詞が省略されずにキチンと書かれているというのは、「あなたこそ」とか「私こそ」といったニュアンスで、強調されていると考えることができます。それを踏まえて、この詩編を読むのがよいと思います。 
そうすると、冒頭の137節に導かれる137から140節では、「主よ、あなたこそが正しい方」と言って始まり、主の正しさや義を調教しているのだと思います。私はあなたのその義を熱情をもってしたい求めている。これに対し、141節から144節の後半では、前半で注目した主の義に照らして、それに対してこの私は、取るに足りない者であって人からも侮られている、と続いている。私は苦難と苦悩の中で苦しんでいるけれど、神の戒めを喜びとしています、と言っています。
もう一つのこの詩編の特徴は「義」とその仲間言葉が多い、ということです。137節の「正しく」、138節の「義」、142節の「義」、「正しく」、144節の「正しい」。これらの言葉がすべてその仲間です。神の義、神の正しさに注目しています。この言葉には倫理的な正しさも意味していますが、それ以上の含蓄がある。主なる神様の積極的な介入を意味し、ほとんど「救い」と同じような意味を持つ言葉です。
主なる神様、あなたこそ義しい方、私を救ってくださる方。私は取るに足りない者、人には侮られた者ですが、あなたの義を求めています。心を燃やしています。どうか私を救ってください。この詩編はそういう熱い祈りの詩編なのです。

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