2021年5月2日日曜日

2021年5月2日(詩編119:57〜64)

詩編119:57~64(ヘト)
主は私の受ける分。
あなたの言葉を守ると約束しました。
心を尽くして願い求めます。
仰せのとおり、私を憐れんでください。(57~58節)

「私の受ける分」という言葉があります。取り分とか分け前という意味がありますが、旧約聖書ではとても大切にされている言葉です。イスラエルの人々がエジプトから脱出して40年の荒れ野の旅をし、ついに約束の地に入る。その時、部族毎、さらに氏族毎、家族毎に土地が割り当てられました。この割り当て地、相続地は神さまに与えられた地です。この割り当てを指す言葉が、この「私の受ける分」というのと同じ字なのです。
この詩編では主ご自身が私のうける分、相続地だ、と言います。土地分配の時に、主ご自身が分け前として分配された人々がいました。レビ人、祭司の一族です。「そのため、レビ人には、兄弟たちのような割り当て地や相続地がない。あなたの神、主が語られたとおり、主ご自身がその相続地だからである」(申命記10:9)。レビ人には土地の割り当てがないので、畑を耕して作物を得ることができません。彼らは社会的には弱者になります。それで、同じ申命記の14:29~30には「あなたは、三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一をすべて取り分け、町の中に置かなければならない。あなたのような割り当て地や相続地のないレビ人や、あなたの町の中にいる寄留者、孤児や寡婦がやって来て食べ、満足するようにしなさい」と書かれています。主ご自身が割り当てというのは、何の寄る辺もない、他者の善意によって生きる以外の道がない、ということを意味します。
「仰せのとおり、私を憐れんでください」とこの詩編では言っています。主の憐れみにすがって生きるというのは毎日の生活のこと、実際的な事柄です。私たちは、他者の手を通して主の憐れみを経験します。隣人の愛に信頼することなしに、主に頼るということは不可能です。主イエス様ご自身、あのサマリアの井戸で、見知らぬサマリアの女の善意にすがって一杯の水を求めました。自分の弱さをさらけ出し、他人の善意に信頼することは、特に現代のような世界にあっては意味があることなのではないでしょうか。
今日の御言葉は、不思議です。私たちを不思議な神の愛の世界に招きます。私は他者の愛によらなければ生きることのできない存在。私たちは主への愛と信頼を持ってそのことを告白し、神と隣人の愛を信じるという信仰委の冒険に踏み出します。

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