2021年5月3日月曜日

2021年5月3日(詩編119:65〜72)

詩編119:65~72(テト)
苦しみに遭ったのは私には良いことでした。
あなたの掟を学ぶためでした。
あなたの口から出る律法は私には良いもの。
幾千の金や銀にまさります。(71~72節)

「苦しみに遭ったのは私には良いことでした」とありますが、なかなか「アーメン、その通りです」とは言えない言葉です。苦しみは苦しみです。それ自体は良いものではありません。私たちには避けがたいことではあります。これも神さまの手の内にあると信じたいけれど、なかなか感情が付いていかないということもあるのではないでしょうか。
どうして、それでもなお「苦しみに遭ったのは私には良いことでした」と言いうるのか。この詩編は言うのです。それは「あなたの掟を学ぶためでした」と。苦しみの中で神の掟、つまり御言葉を学んだ。だから、この苦しみには意味があった、これはわたしにとってよいことだった、と言います。
それがいかなる掟だったのか、どのような言葉だったのかは具体的に書かれていません。しかし、書く必要がなかったのかもしれません。私たちにも、それぞれに、苦しみの時に出会った神様の御言葉があるのではないでしょうか。そして、それは時として、「掟」とここで言っているとおりに私たちを新しい生き方へ招く御言葉であったのではないでしょうか。
使徒パウロは言います。「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っている」と。なぜなら、キリストが私のために苦しんでくださったことを知っているから。だから、私は苦難を誇りとする。苦難の中で忍耐が生まれ、その忍耐は私の品性を練り清め、そこで磨かれた品格は希望を生む。キリストの苦しみにあずかる希望を。
あるいはパウロはこのようにも言います。「今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています」(コロサイ1:24)。私のこの苦しみは、キリストの苦しみにつながっている。隣人のための苦しみ、他者の罪を負う苦しみを、私は喜んで引き受ける、と言います。キリストにあって、苦しむことの意味が変革されたのです。キリストが私にしてくださったように隣人のために苦しむ事へと、私たちは招かれている。苦しみの中でキリストと共にある。だから、私には希望がある。パウロはそのように言います。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...