2021年5月26日水曜日

2021年5月26日(詩編129)

詩編129
「私が若い時から、彼らは大いに私を苦しめた。
しかし、私に勝つことができなかった。
悪しき者らは私の背に鋤を当て
長い畝を作った。」
主は正しい。
悪しき者らの縄を断ち切ってくださった。(2~4節)

自分を苦しめる人を前にしたとき、この詩編は大きな慰めになります。「彼らは私を大いに苦しめた。しかし、私に勝つことができなかった。」私が強くなり彼らにも勝てるようになったからとか気にしないでいることができるようになったからとか、そのようなことは言っていません。彼らが畑を耕すように私を痛めつけたとしても、主は彼らが私を縛る縄を断ち切ってくださる。私を自由にしてくださる主の正義が私を守ってくださる。それが、この詩編が表明する信仰です。
私は、ちょっとでも自分が苦しめられたり、意にそぐわないことを言われたり、厭な思いをしたりしたら、倍にして返したくなります。言葉で、態度で、相手にも厭な思いをさせてやりたくなるし、実際にそうしてしまいます。もちろん、そんなことは間違っています。間違っていると分かっているのに、どうしても気が済まない。そんな自分に気付くと惨めな気持ちになります。
私は、この詩編の中心は「主は正しい」というこの一句であると思います。原文でも、たった二つの単語で言い表されています。「主は正しい。」それ以外には私たちの言うべきことは何もありません。私は本当に小さな人間。しかし相手もそうです。小さな者同士、もうどうしようもありません。しかし、主は正しい。それだけは確かです。
この詩編は主の正しさにかけています。ただし、正しい主に怒られないように良い子の振りをする、ということもしません。かなり激しい言葉で相手を罵っています。ただ、相手にぶつけるのではなく、主なる神さまにそれを訴えている。これが信仰者の怒り方。そのことを教えられます。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...