2021年5月25日火曜日

2021年5月25日(詩編128)

詩編128
幸いな者
主を畏れ、その道を歩む人は皆。
あなたの手が苦労して得た実は
  必ずあなたが食べる。
あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。(1~2節)

とても正直なことを言うと、私は今朝の詩編を読んで戸惑ってしまいました。主を畏れ、その道を歩んだとしても、自分の手が苦労して得た実を食べることができるとは限らない現実がこの世に溢れているからです。3節を見ると妻や子どもたちといった家族の祝福にも言及されています。しかし家庭の中でしあわせを味わうことができるとは限らないし、妻や子どもとうまくいかなくなってしまったとき、それは神さまに逆らったからだと単純に言うことはできません。
神さまに従っても、不条理な目に遭うことはあります。あるいは逆に神に逆らう人のほうが幸せにやっているように見えてしまうことも往々にしてあります。そう考えると、今日の詩編に戸惑ってしまいます。
ただ、この詩編の言葉をわが祈りとして口ずさみつつ都に上っていったたくさんの旧約の民も、そんな不条理はよく知っていたと思います。「神さま、どうしてですか」と、私たちと同じような祈りを重ねながら信仰生活を送っていたに違いないのです。不幸を味わいながら、それでも神を信じ、神に従った。そして、主を畏れ、その道を歩むことこそが私の幸せだと信じて生きたのです。
私たちはどんなに神さまを信じ、真摯に生きたとしても、願っている幸いを得ることはできないかも知れません。却って不条理な目に遭うかも知れません。しかしそれでも、神さまを信じ、主を畏れ、その道を歩むことが私たちの最高の幸せであると私は信じています。なぜなら、それこそがキリストの歩まれた道だからです。キリストは、報いがなくとも神を信じ、誰からも顧みられなくても隣人を愛し抜かれました。キリストと共に生きる者は、この世で報いを受けなくても、来る世で神が必ず報いてくださるに違いありません。
「イスラエルの上に平和があるように」とこの詩編は結ばれています。イスラエル。神の民。新約の民である私たちも、キリストにあってその一員です。私たちの平和はキリストにある。キリストを見上げ、キリストの御足の跡に自分の足を重ねて歩む一日を、祈り求めていきたいと願います。

2024年3月29日の聖句

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