2021年5月28日金曜日

2021年5月28日(詩編131)

詩編131
主よ、私の心は驕っていません。
私の目は高ぶっていません。
私の及ばない大いなること
奇しき業に関わることはしません。
私は魂をなだめ、静めました
  母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。
私の魂は母親の傍らの乳離れした幼子のようです。(1~2節)

母親の傍らにいる乳離れした幼子。もちろん子どもによってそれぞれ違うと思いますが、私がよく知っている乳離れしたばかりの幼子は、母親にべったりです。もちろん元気に、自由に遊び回ります。自分から離れる分にはいろいろな冒険を試みますが、いつの間にか母親が離れることは決して許しません。自分の基地である母親がそこにいて、自分を見てくれていることで安心して遊んでいるようです。母親のまなざしや温かい手が幼子を守っているし、幼子自身そのことを知っています。
まるでそういう幼子であるかのように、私はあなたの傍らにいます。この詩編は神さまにそのように言います。そして、「私は魂をなだめ、静めました」と言っています。波立ち、不安だったのでしょう。粟立つような思いでいたのかも知れません。しかし、どんなときにも幼子が母の側で安心するように、私はあなたの傍らで平安を得ますと言うのです。
そうやって主なる神様のそば近くにいるとき、心が驕ることはありません。その目が高ぶることはないのです。「奇しき業に関わることはしません」と言っています。「奇しき業」は神さまの領分です。奇しき業、奇跡のようなことによって自分の願いを叶えてほしい、自分に得になるようにしてほしいと私たちは願います。しかし、そこは神さまの領域として、私は私の分をわきまえる。それもまた神さまの御前での幼子としての振る舞いです。私たちは神さまの子どもとして、母の側にいるようにして、神さまの目に、その手に、今日も守られています。

2024年3月29日の聖句

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