2021年5月4日火曜日

2021年5月4日(詩編119:73〜80)

詩編119:73~80(ヨド)
あなたの掟に照らして
  私の心に落ち度がありませんように。
私が恥を受けないために。(80節)

この詩編は最後で「私が恥を受けないために」と書かれています。恥をかくというのはできれば避けたいことです。ですから私たちは社会常識からあまりに外れたことは自重しますし、世間体からして恥ずかしいことはしないように自制します。しかし一度立ち止まって考えてみると、何を恥とするかという基準は、それほど確かなものではないようにも思います。世間の常識って、一体何でしょうか?人目といってもその「人」というのは誰のことなのでしょうか。もしかしたら、本当はそれほど確かな実態があるわけではないものが、いつの間にか力を持って私たちの社会を支配しているのではないかとさえ思ってしまいます。
この詩編では「恥」の基準が極めてはっきりしています。「あなたの掟に照らして、私の心に落ち度がありませんように」。あなたの掟、神が与えてくださった律法を基準にして、そこに対する落ち度があれば私は恥ずかしい思いをしないわけにはいかない。あるべき私の姿から遠く離れてしまっているということになるからです。基準ははっきりしているのであって、世間だったり常識や人目といった実態のよく分からないあやふやなものではない。いやただ単に「あやふや」というだけではなく、常識を造る人目は罪深い私たち人間の目ですから、そもそも「常識」が基準となり得るのかという問題があるのだと思います。ところが神の掟はそうではない。とこしえに変わることのない神の御心に従って生きることこそ、私たちの美しい生き方です。
この詩編では、「あなたを畏れる」とか「傲慢な者らが恥じ入りますように」とか言っています。神を畏れ、神の前にへりくだるというところに、神の掟に従う生き方を見ているのではないでしょうか。そして「あなたの憐れみが私を訪れ、私を生かしてくださいますように」と言っています。神の憐れみにすがり、神に生かして頂く。そういう神の憐れみの事実と神の掟は別々のものではありません。神の憐れみにすがるものは、他の誰かから何を言われることがあろうとも、神に恥じ入ることはないのです。私たちにはそもそも神に誇るべきところは何一つありません。誇るとすればただ一つ、私を憐れんでくださる神がこの私でさえも救ってくださっていることをこそ誇ります。この神の前で、私は恥じ入ることがないのです。キリストの憐れみのゆえに!

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...