2021年5月5日水曜日

2021年5月5日(詩編119:81〜88)

詩編119:81~88(カフ)
私の魂はあなたの救いに思い焦がれ
  絶え入りそうです。
あなたの言葉を待ち望んでいます。
私の目はあなたの仰せを思い焦がれ
  絶え入りそうです。
いつ私を慰めてくださるのか、と問いかけます。(81~82節)

あなたの救い、あなたの仰せに思い焦がれ、絶え入りそうです。そのように二度言葉を重ねています。「絶え入りそうです。」これは「終わる」という意味のある動詞で表現されています。私の魂が、私の目が、もうここで終わってしまうほどに思いを焦がしながら神の救いを求め、神の仰せを求めている。
ここで「私の目はあなたの仰せを思い焦がれ」と表現していることはとてもおもしろいと思います。普通、仰せを思い焦がれるのなら、耳であるはずです。ところがここでは目が仰せを思い焦がれている、と言っています。もしかしたら、神さまの仰せがこの世界を、歴史を形づくっていく、その出来事の目撃者となることを思い焦がれ、自分の目が終わりを迎えてしまうほどの思いでそれを待ち望んでいる、ということであるのかも知れません。私たちはそこまでの思いを持って神さまの仰せを思い焦がれているでしょうか。
もう一つ心を引かれるのは、83節で「煙の中の革袋のようになったときでも、私は、あなたの掟を忘れませんでした」と言っているところです。煙の中の革袋と言っていますが、どういう意味なのでしょう。私は実際に革を煙でいぶしたことはありませんが、恐らく、ひび割れてボロボロになっていくのではないかと思います。革袋としては使い物になりません。私自身が煙の中の革袋のようになってしまうとき、それでも私はあなたの掟を忘れませんでした、と告白しています。これも、やはり神さまの仰せを思い焦がれ、絶え入るほどにそれを求めているという意味なのでしょう。
それは「傲慢な者」が「偽りをもって私を迫害」したことで受けた苦しみと無関係ではないはずです。人に苦しめられていた。この人も、私たちとまったく同じ人間関係の悩みに苦しんでいました。その苦しみの中で神さまの御言葉、神さまの仰せこそ救いと信じてこれを求め、ここに救いがあると信じ続けた人の祈り。それがこの詩編です。私たちも共有する祈りの言葉です。

2024年4月25日の聖句

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