2021年7月4日日曜日

2021年7月4日(箴言15)

箴言15
柔らかな受け答えは憤りを鎮め
傷つける言葉は怒りをあおる。
知恵ある人の舌は知識に磨きをかけ
愚か者の口は無知を吐き出す。
主の目はすべての場に注がれ
善良な人も邪悪な者も見張っている。(1から3節)

人間関係の中で、良さや悪さは相対的です。こちらが良いとか正義だとか思っていても、あちらはあちらで自分が正しいと思っています。自分が悪いと思いながら意地を張ることも時にはありますが、それでも自分にもいくらか正しいところがあると思わなければ意地も張れません。やはり、泥棒にも三分の理とでも言うべきか、何らかの正しさをそれぞれが持っていて、それがぶつかり合うと、なかなか解決できなくなります。特に現代はインターネットの発展も後押しして、誰でも自分の意見を匿名で表明できるようになったので、正しさ同士のぶつかり合いが激化しました。私たちの社会の価値観は非常に混乱していると思います。
箴言第15章にはいくつかの「言葉を巡る知恵」が登場しています。言葉を巡る正しさは、とても難しい問題です。そんな時に私たちを相対的ならぬ絶対的な基準の下に引き戻すのが、この言葉です。
「主の目はすべての場に注がれ」。
主の目がこの私のこともご覧になっている。主の目を向けられた者として、私は何を口にし、また何をするのでしょうか。これは他人に向けるべき基準ではありません。自分自身への問いとして、神さまの前に真摯に顧みるべき基準です。主の御前で、私は一体何者か、と。
私たちの今日一日も、主の前にあります。「善良な人も邪悪な者も見張っている」という言葉から受けがちなネガティブなイメージがありますが、むしろ、主の前に生かされていることへの聖なる畏れとして受け止めたいと思います。主の御前に、私は一体何者なのか?私が口にする言葉は、主の前に生きる者としてふさわしいのか?主が、私たち一人ひとりに問いかけておられます。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...