2021年8月27日金曜日

2021年8月27日の聖句

主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。(詩編19:8)
聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。(2テモテ3:16)

私には、もっと知恵のある人間になりたいと思うことがよくあります。牧師として、もっと知恵に富んでいれば有意義な仕事ができるのではないかと思います。中会の仕事をしていても、もっと知恵や見識のある意見を言ったり、人の話にうまく耳を傾けたりすることができたのではないかと思います。そんな私にとって、正直に言って、今日の御言葉は少し重いものでした。「主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える」と言っています。ここでの「主の定め」は、私たちに置き換えたら「聖書」と言って差し支えないと思います。聖書の御言葉は真実であって、無知な人に知恵を与える。自分の無知は、蒙昧は、聖書の真実から遠いからなのだろうと思う。そうすると、とても心が重くなります。
特に今、社会の様相が数年前までとは変わってしまったように思います。本当に、全然先が見通せなくなってしまった。コロナもそういう状況に拍車をかけているのでしょう。そんなときは、はっきりと状況を分析したり、こうしたいいと強烈な指示を出してくれる強い言葉を求めたくなってしまいます。これまでの歴史の中に出てきた大小さまざまな独裁者は、そういう大衆の心が欲していたのかなと、まったく他人事でなく思います。
ところが、聖書はそういう「強い言葉」ではありません。「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」義に基づいた訓練をする。訓練というのは、体の訓練であれば自分の体を動かし、苦労して鍛えなければ成し遂げられないことからも分かるとおり、人任せにはできません。信仰の訓練も同じです。自分で何も考えずに盲信すれば済んでしまう「強い言葉」は、私たちを義に基づいて訓練することはできないのです。キリストは、聖書によって私たちが自分の信仰に応じて応答することを求めておられます。
少し前に読んでいた箴言では、知恵の初めは主を畏れることだと言っていました。確かに、それは聖書に訓練されることがなければ、私たちの内から湧き上がってくることではありません。私は無知蒙昧だからこそ、主を畏れるという知恵の初めを身に着けさせてください、と神さまに祈りたいと思います。その訓練が、私に必要なさまざまな知恵をも得させるのでしょう。神様ご自身の霊感によって書かれた聖書の御言葉が、必ず私を導くと信じています。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...