2021年9月19日日曜日

2021年9月19日の聖句

怒りをやめ、憤りを捨てよ。憤慨するな、それにより悪を行わないためだ。(詩編37:8)
ご覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。(ヤコブ3:5~6)

なんと耳が痛い聖句!怒っているとき、憤っているとき、心を支配している確信は「絶対に自分が悪い」ということです。「確かに自分も悪いけど」と口では言っても、心のどこかで思っていても、その何倍も自分の方が正しい、あるいは自分は被害者だと思えるから、怒ります。相手が悪いと言って憤ります。
聖書は、憤慨は悪につながると言います。「悪につながる」というよりも、直結しているとか、悪の虜になっているということだと言った方が良いかもしれません。それまでの主張が例え正しかったとしても、怒っているということそれ自体が悪の誘惑に他ならないと聖書は言います。
その悪の火事は、舌を通して燃え広がります。「ご覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。」この言葉は深いと思います。この舌がどれほど悪を行い、どれだけたくさんの炎を燃やしてきたことか・・・。
罪は禍々しいです。ちょっと怒っちゃったとか、多少言葉を間違えたとか、誤解を与える表現だったとか、本当はそういうことではないのです。弘法も筆の誤りと言いますが、罪はそうではない。弘法も筆の誤りというのは普段すばらしい字を書ける人がした失敗ですが、罪を犯す私は、存在そのものが歪んでいる。怒りに支配される心、憤って口にすべきでない言葉を舌にのせる私は、存在の根本からねじれてしまっています。
主イエス・キリストに救って頂かなければ、私は救われようがありません。土台がくさってしまっては、リフォームではどうにもなりません。建て替えなくては。キリストの十字架は、私の存在を新しくしてくださいます。キリストの十字架の血で、私も洗って白くしてくださるのです。私はキリストに救って頂かなくてはどうにもならない。キリストの憐れみにすがりつつ、私はそのように告白します。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...