2021年9月20日月曜日

2021年9月20日の聖句

私は死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう。(詩編118:17)
生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)

今日の新約聖書の御言葉は、この部分だけではなく前後も一緒に読んだ方が良い箇所だと思います。このように書かれています。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」
律法にお陰で義とされるというのは、自分の正しい生き方に頼るということです。自分がちゃんとしているから、自分には価値がある。自分は努力しているから、自分を認められる。そういう考え方は、そういう自分を周りは認めて然るべきだとなるし、成果を残せていない人は努力をしていない駄目な人という周囲への傲慢を生みます。もし、人が、自分が、ちゃんとしているから価値があるのだとしたら、神の恵み、キリストの死は無意味になります。古いわたしはすでにキリストと一緒に十字架につけられました。自分の正しさを物差しにして優越感に浸ったり劣等感にさいなまれたりする古い自分はすでに死んだ。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。
だから、今キリストを信じる信仰によって生きているわたしは、無価値なわたしを無価値なままに受け入れ、愛し、わたしのためにキリストを与えてくださった神の愛を賛美します。神を礼拝するために、わたしは今生きている。それが私たちキリストを信じるものの確信です。今日、私たちは、キリストを与えてくださった神を礼拝し神を賛美するために、生きているのです。

2025年7月18日の聖句

私たちの背きは眼前に立てられていて、私たちは自らの罪を知っています。私たちは主に背いて欺きました。(イザヤ59:12~13) たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。(1ヨハネ2:1) なんとありがたく、恵みに満ちた御言葉なのでしょう...