2021年9月23日木曜日

2021年9月23日の聖句

あなたがたは再び、正しき者と悪しき者、神に仕える者と仕えない者との区別を知るであろう。(マラキ3:18)
たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)

たゆまず善を行いましょう、と言います。「たゆまず」は漢字で書くと「弛まず」と書く。この字は「弛む(ゆるむ)」とも読みます。緊張していたものがゆるんでしまって、だらけてしまう。続けていたことがいやになって、怠ってしまう。ここでは、善を行うことにおいてたゆんでしまう、と言います。善を行うことに疲れて、もう止めてしまう。「飽きずに励んでいれば」とも言っているので、善を行うことに飽きてしまうと言うこともできます。
なぜそのようなことになるのか。いろいろな理由があるでしょうが、一つにはいくら善を行っても成果が見えず、疲れてしまうということがあるのではないかと思います。いくら心を込めて善を行うことを心がけ、それに励んでも、誰にも認めてもらえない。いっこうに状況が改善しない。空しくなってしまう。モチベーションが維持できなくなってしまう・・・。
聖書は「時が来て、刈り取ることになります」と言っています。私たちの善を刈り取ることのできる「時」が必ず来る、と言う。しかし、そのような「時」は一体いつ来るのか?本当に来るのか?疑いだしたら、底なし沼にはまってしまいそうです。
このようなときにこそ、私たちはキリストのお姿を思い出しましょう。キリストこそ、隣人のための完全な善に生きた方です。隣人を愛し、神を愛し、そのためにご自身を献げました。それではキリストはその報いに何を受け取ったのか?キリストへの報いは、十字架にはりつけにされることでした。ところが神さまはこのキリストを死者の中から引き上げ、御自分の右の座につかせられたのです。つまり、私たちが善の実りを刈り取る来たるべき「時」というのは、やがて父なる神様の御許に引き上げられたとき、キリストの御前に立ったとき。すべてが完成する最後の時のことです。私たちは父なる神様が「よい僕だ、よくやった」と迎えてくださるその日まで、この世でなすべき善を献げていきます。
私たちは人間である以上、疲れてしまいます。いやになって、たゆんでしまうことがあります。そのようなとき、私が善くても悪くても、私のためにひたすら善いもの、つまり神の愛を与えてくださるキリストを見上げましょう。この方が私を迎えるために、今や手を広げて待っていてくださるのです。私たちの今日という一日は、キリストの御許へ至る歩みなのです。

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...