2021年9月7日火曜日

2021年9月7日の聖句

あなたの神、主は、この広大な荒れ野を通るあなたの旅路を見守られた。(申命記2:7)
イエスはペトロに言われた:陰府の門も私の教会に打ち勝つことはない。(マタイ16:18)

8月から「日々の聖句」という聖書日課の小冊子に従って毎朝のメールをお送りしています。日本語版では見開きにページに一週間分の御言葉が収められています。スペースが限られていることと、毎日掲げられている御言葉が基本的に旧約と新約から一節ずつと短いので、言葉を補ったり省いたりすることがあります。また、新共同訳だけではなく新改訳など他の翻訳を参照して改めることもある。今日の新約聖書のマタイによる福音書の御言葉は、そういう補いが多いようです。特に注目すべきは、新共同訳が「陰府の力」と訳していたところを「陰府の門」としている部分です。確かに、門とか戸と訳せる言葉ですし、英語の翻訳でもthe gateという訳が見られます。陰府の門が私たちに迫ってきている。その門が開け放たれると、陰府の軍勢が私たちに押し寄せ、私たちを殺し、連れ去り、陰府の奴隷にしようとしている。そういうイメージでしょうか。しかしそのような陰府の門がもたらす力に、教会は対抗することができる。陰府の門はキリストの教会に打ち勝つことができない。キリストはそのように言われます。
旧約を見ると、ずいぶんと新約とは違うイメージであるように思います。「あなたの神、主は、この広大な荒れ野を通るあなたの旅路を見守られた。」エジプトを出たヘブライ人たちの40年にわたる荒れ野の旅路のことを言っている。広大な荒れ野、自分たちを守るものは何もない。しかし、その旅路の最初から最後まで、神が私たちを見守っていてくださった、と言います。この旅路には目的地があります。旅は永遠に続くのではなく、やがて目指す場所に着く。約束の地にやがて着きます。私たちの命の旅路にも目的地がある。天の故郷を目指して私たちも旅路をしている。ところが、私たちの目にはその故郷が見えないのです。陰府の門が立ちはだかり、扉を閉ざしている。私の力は小さすぎて、それに打ち勝つことができない。自分の死も、愛する者の死も、どうすることもできない。ところが、キリストは言われます。「陰府の門も私の教会に打ち勝つことはない。」私たちは非力です。しかし、キリストは陰府の門に打ち勝つ力を教会に与えてくださいました。それは、福音の言葉です。キリストの愛を告げる聖書の御言葉です。陰府の門を開け放って、キリストが私たちを神の家に迎えてくださるのです。だから、恐れなくていい。私たちの旅は必ず目指す地に着く。キリストはそのように語りかけてくださっています。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...