2021年9月8日水曜日

2021年9月8日の聖句

見よ、私が支える僕、私の魂が喜びとする、私の選んだ者を。(イザヤ42:1)
皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4:22)

私たちはイエス・キリストが私たちに語りかけ、そして御自分が十字架にかけられ、復活させられたことで神が示してくださった福音を信じています。キリストの福音、キリストによって示された神の愛。これが私たちを生かしています。この福音をイエスの口から聞いたとき、人々はその言葉の恵み深いことに驚いて言いました。「この人はヨセフの子ではないか」と。
このように言って驚いた人々は、主イエスの少年時代を知っていたのでしょう。父ヨセフのこともよく知っていたに違いありません。直接ヨセフの顔を知らない私たちには、少し遠い驚きであるのかも知れません。しかし、この驚きの言葉が伝えられることによって、私たちは、イエス・キリストという方がある具体的な時代の、具体的な村の、具体的な人間関係の中に生きておられたことを知ることができます。抽象的に、昔々あるところに神の子がいました、というのではない。イエスの口から福音が明らかにされると「ヨセフの子ではないか」と言って驚く人たちに囲まれて、このお方の福音宣教は始まったのです。
これはとても大切なことです。聖書に書いてあることがどんなに真理であったとしても、すばらしい教えであったとしても、もしもイエスが抽象的な真理だとしたら、抽象的な良い教えだとしたら、私たちとは関係がなくなってしまいます。しかしイエスはヨセフという男の息子として生まれました。この人はナザレ村の大工です。マリアという許嫁がいました。イエスは、しかしマリアとヨセフの肉体的な結びつきを通して生まれた子どもではありません。神の力がマリアに働いて、マリアの胎に宿った。そうやって、イエスはヨセフとマリアという夫婦のもとに生まれ、ナザレ村で育ち、その口から出た恵みの言葉に驚いた人たちは「ヨセフの子ではないか」と言って驚く。このようにして、キリストの福音という真理は肉体をまとったのです。
神さまは、このようにして福音の言葉、その真理が私たちの間を歩くようにしてくださいいました。このイエスを神は「私の魂が喜びとする」と言われます。私たちが肉体となった御言葉に聞くこと、このお方の口から出る福音に生きることを、神さまは喜んでくださるのです。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...