2021年10月16日土曜日

2021年10月16日の聖句

私たちはあなたを待ち望みます、主よ、あなたの裁きの道で。(イザヤ26:8)
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされなければなりません。(2コリント5:10)

運転していて、ときどきパトカーや白バイに出くわすことがあります。取り締まりでもしているのか。曲がれない交差点をうっかり曲がってしまう車を待ち伏せていたり、スピード違反の車を捕まえたり。違反していなくても、パトカーを見るとドキッとしてしまいます。
警察がいると思うと思わず居住まいを正す私たちは、神さまの御前ではどのように振る舞っているでしょうか。警察を例としてあげると、神さまも私たちが何か悪いことをしていないかと見張っているような印象を受けて、あまりよい喩えではなかったかもしれません。ただ、神さまの御前で自分は何者か、自分は神さまの御前にあってどのように振る舞い、生きてきたのかということを省みるというのはとても大切なことであると思います。私たちは誰の目を重んじて生きているのでしょうか?
それにしても驚くのは、旧約聖書の御言葉です。「私たちは待ち望みます、主よ、あなたの裁きの道で」と言っています。「待ち望みます」。主の裁きを待ち望む。主の裁きが希望だからです。もしも神さまに見張られている、神さまは私の過ちを責めていると思っていたら、待ち望むことなんてできません。旧約の時代を生きたこの信仰者は、神の裁きは私にとっては救いだと信じていたのです。
私たちは、弱いです。社会的に影響力があるわけでもなく、何らかの力を持って自分たちの理想を実現させることもできません。しかし、私たちは祈り続けます。「御国を来たらせたまえ」と。この世界の有り様がどんなに神さまの御心からかけ離れていたとしても、私たちは希望を持って神さまを待ち、神さまに祈ります。神が裁きを行って、神さまの御国をこの世に造ってくださるように、と。いや、それは、すでに始まっています。イエス・キリストにおいて。キリストがどこまでも人を愛し、へりくだり、病む人や罪人の友となり、十字架の死に至るまで従順であられた。このお方によって、神の国は始まっている。神の裁きは始まっているのです。私たちはキリストの愛とへりくだりによって裁かれている。キリストの十字架の御前に立ち帰ることこそ、私たちが神の裁きを待ち望んで生きるということなのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...