2021年10月17日日曜日

2021年10月17日

彼は痛めつけられたとき、進んで苦しみを受け、屠り場に引かれていく羊のように口を開かなかった。(イザヤ53:7)
キリストは罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。(1ペトロ2:23)

私たちは、キリストの犠牲の上に生きています。キリストの命の犠牲の上に生かして頂いています。キリストは、苦しみを引き受け、小羊が屠り場に引かれて凝れされるようにして十字架にかけられ、血を流しました。キリストが流した血によって、私が代わって命を与えられました。キリストが全部を引き受けてくださいました。「キリストは罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。」神さまに全部を委ねて、ご自分に降りかかることをすべて甘んじて負ってくださいました。この方の命の犠牲によって、この方が罵りや苦しみを受けたときにやり返さず、脅さず、罵らずにその身に負ってくださったことで、私は罵りや苦しみから解放されました。キリストが引き受けてくださったからです。
誰かの犠牲の上に自分の命が成り立っているというのは、できればあまり考えたくないことです。そういうのは、あまり嬉しいことではありません。しかし根本的に、私はキリストの犠牲の上に生きているということが事実です。キリストが血を流したお陰で生かされているというのが私という存在の根っこにあるのです。
その事実を知るのと知らないのとでは生き方が変わらざるを得ないのではないでしょうか。キリストが私の犠牲になってくださった。そのお陰で私は生かされている。だから、他の人を犠牲にして平気な顔をすることはもはやできません。そして、私もキリストがしてくださったように他の人のためにしたい。それがキリストに生かされている私の新しい生き方です。
どこまでも、キリストにすがらなければ生きていかれない私です。小羊キリストの憐れみによってでしか生きられない私です。そして、この方は私が高邁ですばらしい人間だから犠牲になったのではなく、私がまだ罪人であったときに、私のために死んでくださったのです。この方の死のお陰で、私は生きる者となりました。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...