鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、私の魂は、神よ、あなたをあえぎ求める。(詩編42:2)
神は言われた。「渇いている者には、命の水の泉から無料で飲ませよう。」(黙示録21:6)
今日の旧約聖書には「魂」という言葉があります。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、日本語の「霊魂」というような言葉とはかなり違う印象を受ける単語が使われています。元は「喉」という単語です。そこから転じて、渇き、渇望、強い求め、といった意味を持ちます。そして、この同じ言葉を使って命とか、その人の存在を表すためにも使われます。日本語でも「肝が据わった人」というように、体の一機関の特徴によって人間存在のあり方を表す表現があります。このヘブル語の「喉」も同じです。渇いて、水を強く求める人間存在。しかも、それは深く人間の内面の渇きを表すのです。そういう人間の命そのものを、聖書は「魂」と呼びます。
「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、私の魂は、神よ、あなたをあえぎ求める。」この詩編に登場する「魂」は、まさに喉としての人間の渇望が前面に出てきている用例です。どんなに水を探しても見つけることのできない涸れ谷。その底で鹿が水を求め、探し、それでも見つけることができない。鳴くこともできず、あえいでいる。そういう弱り切った一頭の鹿のように、私の魂は渇き、水のように私の命そのものでいてくださる神を求めている。
そのような私たちに、神さまは答えてくださいます。「渇いている者には、命の水の泉から無料で飲ませよう。」価なしに、無償で、神さまは私たちに飲ませてくださる。しかも、永遠の命に通じる命の泉からわき出る水を。私たちは、誰でも渇いているのではないでしょうか。その渇きを満たすために、人からの承認だったり、物だったり、お金を使うという行為そのものだったり、いろいろなところで満たそうとします。しかし、私たちには神さまにしか満たすことのできない渇きがあるのです。命の水の泉から、神は私たちのために価なしに飲ませてくださいます。
今日も、キリストの愛と祝福があなたに豊かにありますように。そしてキリストが飲ませてくださる命の泉の水によって、あなたの渇きが潤されますように。祝福を祈ります。
神は言われた。「渇いている者には、命の水の泉から無料で飲ませよう。」(黙示録21:6)
今日の旧約聖書には「魂」という言葉があります。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、日本語の「霊魂」というような言葉とはかなり違う印象を受ける単語が使われています。元は「喉」という単語です。そこから転じて、渇き、渇望、強い求め、といった意味を持ちます。そして、この同じ言葉を使って命とか、その人の存在を表すためにも使われます。日本語でも「肝が据わった人」というように、体の一機関の特徴によって人間存在のあり方を表す表現があります。このヘブル語の「喉」も同じです。渇いて、水を強く求める人間存在。しかも、それは深く人間の内面の渇きを表すのです。そういう人間の命そのものを、聖書は「魂」と呼びます。
「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、私の魂は、神よ、あなたをあえぎ求める。」この詩編に登場する「魂」は、まさに喉としての人間の渇望が前面に出てきている用例です。どんなに水を探しても見つけることのできない涸れ谷。その底で鹿が水を求め、探し、それでも見つけることができない。鳴くこともできず、あえいでいる。そういう弱り切った一頭の鹿のように、私の魂は渇き、水のように私の命そのものでいてくださる神を求めている。
そのような私たちに、神さまは答えてくださいます。「渇いている者には、命の水の泉から無料で飲ませよう。」価なしに、無償で、神さまは私たちに飲ませてくださる。しかも、永遠の命に通じる命の泉からわき出る水を。私たちは、誰でも渇いているのではないでしょうか。その渇きを満たすために、人からの承認だったり、物だったり、お金を使うという行為そのものだったり、いろいろなところで満たそうとします。しかし、私たちには神さまにしか満たすことのできない渇きがあるのです。命の水の泉から、神は私たちのために価なしに飲ませてくださいます。
今日も、キリストの愛と祝福があなたに豊かにありますように。そしてキリストが飲ませてくださる命の泉の水によって、あなたの渇きが潤されますように。祝福を祈ります。