2021年11月21日日曜日

2021年11月21日の聖句

自分の目には、たどる道はまっすぐに映る。しかし主は心の中を吟味される。(箴言21:2)
善にさとく、悪には疎くありなさい。(ローマ16:19)

小学校のPTAの役員になりました。査読と呼ばれている仕事をします。PTAかの配布する印刷物のチェックです。人が書いた文章だとなんと間違いを見つけやすいことか!不自然な言い回し、分かりにくいところ、レイアウトのずれ、などなどいろいろ目につきます。ところが自分が作っているプリント、例えば週報のような印刷物になんと間違いが多いことでしょう。礼拝中に気づくこともしばしばです。PTAでの査読よりもよっぽど気を遣って、目を皿のようにして探しているつもりですが、大きな間違いをしょっちゅう見落としてしまいます。自分がしている間違いには気づかない、あるいは気づけない。
「自分の目には、たどる道はまっすぐに映る。しかし主は心の中を吟味される。」主なる神様に心の中を吟味されたら、もう立つことができません。正しいと思い込んでいるところで、私の道がどんなにねじ曲がり、あるいは道を外れているか、想像することさえできません。
「善にさとく、悪には疎くありなさい」と言われています。ここでの「善」というのは、当然ですが「独善」とか「偽善」というような善ではないでしょう。ところがなんとしばしば善だと思い込んでいるものが自分一人にしか通用しない善に堕していることか。それは悪にさといということに他ならないのだと思います。そうではなく善にさといこと、悪に疎いことを聖書は私たちに求めています。ローマの信徒への手紙のこの言葉には、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」と続いています。神さまが悪を打ち砕いてくださる。悪魔を打ち負かしてくださる。つまり、神さまがどうご覧になっているかということから、今を見つめ直し、生きるということではないでしょうか。
神さまは私をどうご覧になっているのか。そのことを省みたときに胸を張れる人は一人もいないと思います。「自分の目には、たどる道はまっすぐに映る。しかし主は心の中を吟味される。」だから、私たちが善を選びうるとしたら、それは悔い改めからしか始まらないのではないでしょうか。主の憐れみを求め、キリストの赦しの中で私を新しくしてくださいという祈りによってでしか、私たちは善にさとく生きることができないのではないでしょうか。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...