2021年11月20日土曜日

2021年11月20日の聖句

あなたの手に善を行う力があるとき、なすべき相手に善をすることを拒むな。(箴言3:27)
善を行うことに労力を惜しむな。(2テサロニケ3:13)

今日の御言葉を読んで、私は憐れみ深いサマリア人の譬えを思い出しました。追い剥ぎに半殺しの目に遭わされて倒れていた人。祭司とレビ人は何もしないで通り過ぎました。最後に通ったサマリア人だけが、その人を憐れに思って傷を介抱しました。しかし、祭司とレビ人にも、そうしようと思えば助けることはできたはずです。彼らがなぜ助けなかったのか、その理由を主イエスはおっしゃいませんでした。むしろだからこそ、私たちが彼らの姿に自分を重ねてみないわけにはいかないということでもあるのかも知れません。それを考えるときに、今日の御言葉は意味が深いと思います。
「あなたの手に善を行う力があるとき、なすべき相手に善をすることを拒むな。」
「善を行うことに労力を惜しむな。」
善を行うことに労力を惜しんでしまう。なすべき相手への善を拒んでしまう。聖書のこの問いは、深いと思います。このように問いかけられ、指摘され、張り切って顔を上げることができません・・・。
思えば、あのサマリア人がしたことは何かものすごいこと、というわけではありませんでした。強盗が出ないように警察力を強化すべく政治家になったとか、けが人が出たらすぐに救出する社会システムを作ったとか、祭司やレビ人のような人が出ないよう民衆に倫理教育を施したとか、そういうことはしていません。あるいは、大きな事業を始めたとか、たくさんの人をそういう活動に巻き込んだとかでもありませんでした。ただ目の前の人のために、自分の腹を痛めるほどの締め付けを覚え、痛んでいる人のところに駆け寄っただけです。そこでは周りからどう見られるかとか、どう評価されるかとか、そのようなことなんて関係なく、内面から湧き上がる憐れみに突き動かされて、ただ目の前の傷ついている人の側に寄り添っただけです。それが、キリストがお喜びなる善なのだと思います。
サマリア人を突き動かした憐れみは、神さまが私たちの心にも造ってくださったのだと信じます。憐れみに突き動かされた小さな善を、主は憶えてくださいます。

2024年12月26日の聖句

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