2022年1月11日火曜日

2022年1月11日の聖句

夢が増え、むなしさも増え、言葉数が増えるときに、神を畏れよ。(コヘレト5:6)
自分を卑下したり、天使を礼拝したり、幻でみたことを頼りとする者が、あなたがたの救いを否定すべきではありません。このような者たちはキリストに付く代わりに、肉の思いをもとに、いたずらに誇っているだけです。(コロサイ2:18)

今日の新約聖書にある「自分を卑下したり」という言葉は、新共同訳聖書では「偽りの謙遜」と翻訳されていました。謙遜というととてもすばらしい美徳のようですが、あたかも謙遜に見える「偽りの謙遜」もある、というのです。偽りの謙遜、それは自己卑下です。自分を卑下することは美徳ではない。なぜなら、「このような者たちはキリストに付く代わりに、肉の思いをもとに、いたずらに誇っているだけ」だと言っています。自己卑下、偽りの謙遜は、キリストに付いている者の思いではない。肉の思い、いたずらな誇りだと言う。自己卑下と誇りなんて対極にあるような印象を受けますが、実はその根は一つ。自分へのこだわりであり、そこではキリストが必要なくなってしまう。自分にこだわっていてはキリストに目を上げることができない。自分のへそばかり見るのを止めて、その目をキリストに向けるとき、私たちのための救い主のお姿を見ることができるのです。
天使を礼拝したり、幻で見たことを頼りとする者、とも書かれています。どちらも、自分の信仰や経験の絶対化から生まれるものです。これらも自分へのこだわりです。信仰はキリストに目を向けることですから、自分へのこだわりに拘泥していては、「あなたがたの救いを否定」するということになってしまうのではないでしょうか。
私たちには、プラスの方向であってもマイナスの方向であっても、自分という世界から抜けられなくなってしまうことがある。プラスの方向というのは傲慢として現れ、マイナスの方向というのは自己卑下として現れるのではないでしょうか。どちらにしても、そこではキリストが追い出されてしまう。だからこそ、「夢が増え、むなしさも増え、言葉数が増えるときに、神を畏れよ」というこの御言葉を心に留めたいと思います。神を畏れ、神の御前で、神に向かって生きるとき、私たちはキリストの救いというすばらしい宝を見ることができるのです。今日の私たちの祈りの歩みが、キリストにこの目を注ぐ祝福の時となりますように。

2022年1月19日の聖句

貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言17:5) 憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受けるからだ。(マタイ5:7) 今回のコロナのことで痛感させられたことの一つは、苦しむ人と私との差は何もない、ということです。いつ、どこで、...