2022年1月21日金曜日

2022年1月21日の聖句

主よ、あなたは私たちの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業です。(イザヤ64:7)
あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。そして、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと任命したのだ。(ヨハネ15:16)

それまでは当たり前のように太陽が地球の周りを回っていると思っていたところに、実は地球が太陽の周りを回っていると唱えたコペルニクス。そこからとって「コペルニクス的転回」という言葉があります。物事の前提からすべてがひっくり返ってしまうような大転回を指す言葉です。今日の御言葉は、まさにそれです。「私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業です。」神さまが私たちを造ったのであって、私たちが神さまを造ったのではないという告白です。
特に現代は、この点を厳しく問うているのではないかと思います。神さまと言ったって、結局は人間が造り出したものでしょう、と多くの人が思っているのではないでしょうか。そして、その批判は耳を傾けるべき批判だと思います。私たちが自分に都合の好い神さまをすぐに造り出してしまうからです。何もそれは神社仏閣とか新興宗教の話ではありません。私たちキリスト者こそが、自分の好む顔を持つ神々を無自覚に生み出し続けているのではないでしょうか。律法学者は自分の正しさを認めてくれる神を作り上げました。祭司たちは自分の作る神の顔と異なるので、イエスを十字架にかけました。私たちは、自分の願いを叶えてくれる神の顔を求め、それを作り上げることの達人です。
しかし、本当は、神さまが私たちをお造りになりました。私たちは土くれに過ぎない。その私たちにかたちをあたえ、生きる命を与え、ご自分の前に立たせてくださったのは、神さまです。私たちがこの神を選んだのではない。私たちがこの神を都合よく生み出したのではない。主イエス・キリストの父であるかたが私たちを造り、選び、ご自分のものにしてくださいました。私が主であるのではなく、神さまが主でいらっしゃるのです。
この事実は、私たちの生き方を変えます。神さまがお造りになったのなら、私たちは神さまの作品として尊いはずです。そして、神さまがお造りになったのなら、私たちには目的があるはずです。与えられた尊さを映す目的が。神さまが私に望んでおられることは何か。神を愛し、仕え、礼拝し、隣人を愛する一日を生きたいと願います。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...