主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口の息吹によって。(詩編33:6)
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです。(使徒17:25)
先日、『宇宙はなぜ美しいのか』という本を読みました。とっても面白い本でした。物理学者が新しい理論を分かりやすく紹介しながら、物理学者が感じる美とはどういうものなのかを平易に説明していました。物理学者が感じる美とは、できるだけ単純な理論で宇宙の現象が矛盾なく説明されることだというのです。(具体的ないろいろな理論も解説してありましたが、私には再現することはできません!)この本の最後の方に、なぜ宇宙は今の姿なのか、それは偶然に過ぎないのか、あるいは必然なのかということが問われていました。著者としては、必然だと考えたいというようなことが書いてありました。そういうところにまでくると、一人の信仰者としては、この宇宙をお造りになった方がいる、とやはり言いたい。この世界は、この学者がおっしゃるとおり偶然ではない。これをお造りになった方の善き意志に基づいて造られた。だから、学者たちが世界に美を感じるのも自然なことだと私は思います。この世界は神に造られた。
「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口の息吹によって。」これは、すばらしい福音です。天も、天の万象も、神に造られた。偶然発生したのではありません。たまたまこうなったのではないのです。神が、天も、天に満ちる万象も、神が善き意志を持ってお造りになった。ご自分の御言葉と、霊とによって。
だから、神さまには何かが足りないということはありえません。神さまが世界をお造りになったのであって、世界や人間が神を造ったのではないからです。物を言わない石や木が神なのだとしたら、人間が仕えて世話をし、食べ物を備えたりどこかに運んだりしなければ何もすることはできない。しかし、石を拾い、木を切る人間そのものをお造りになった方は、まるで足りないところがあるかのようにして仕えてもらわなければならないということはあり得ないのです。神が、私たちに命を与えてくださいました。神が、私たちに霊を与え、永遠を思う心を与えてくださいました。だから、人間もまた美しいのです。神が心を込めて、愛を込めて造ってくださった存在だから。だから、あなたも美しいのです。
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです。(使徒17:25)
先日、『宇宙はなぜ美しいのか』という本を読みました。とっても面白い本でした。物理学者が新しい理論を分かりやすく紹介しながら、物理学者が感じる美とはどういうものなのかを平易に説明していました。物理学者が感じる美とは、できるだけ単純な理論で宇宙の現象が矛盾なく説明されることだというのです。(具体的ないろいろな理論も解説してありましたが、私には再現することはできません!)この本の最後の方に、なぜ宇宙は今の姿なのか、それは偶然に過ぎないのか、あるいは必然なのかということが問われていました。著者としては、必然だと考えたいというようなことが書いてありました。そういうところにまでくると、一人の信仰者としては、この宇宙をお造りになった方がいる、とやはり言いたい。この世界は、この学者がおっしゃるとおり偶然ではない。これをお造りになった方の善き意志に基づいて造られた。だから、学者たちが世界に美を感じるのも自然なことだと私は思います。この世界は神に造られた。
「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口の息吹によって。」これは、すばらしい福音です。天も、天の万象も、神に造られた。偶然発生したのではありません。たまたまこうなったのではないのです。神が、天も、天に満ちる万象も、神が善き意志を持ってお造りになった。ご自分の御言葉と、霊とによって。
だから、神さまには何かが足りないということはありえません。神さまが世界をお造りになったのであって、世界や人間が神を造ったのではないからです。物を言わない石や木が神なのだとしたら、人間が仕えて世話をし、食べ物を備えたりどこかに運んだりしなければ何もすることはできない。しかし、石を拾い、木を切る人間そのものをお造りになった方は、まるで足りないところがあるかのようにして仕えてもらわなければならないということはあり得ないのです。神が、私たちに命を与えてくださいました。神が、私たちに霊を与え、永遠を思う心を与えてくださいました。だから、人間もまた美しいのです。神が心を込めて、愛を込めて造ってくださった存在だから。だから、あなたも美しいのです。