王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。(詩編33:16)
しかし、先頭にいる多くの者は最後になり、最後にいる多く者が先頭になる。(マルコ10:3)
今日の御言葉は、私たちの世界に対する神さまからの問いではないでしょうか。「王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。」私たちの常識に挑戦してくるような言葉です。私たちの世界はこういうふうには動いていません。私たちの世界の現実は、こういうふうにはできていないのです。
しかしそれは、この詩編の言葉が最初に詠まれたときからそうです。それどころか、もっともっと過酷な状況だったはずです。平和な時代に、安全な場所で生み出された言葉ではない。嘆きと悲しみが渦巻く世界の中で、しかし断言します。「王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。」
今朝の新約聖書が伝える主イエスのお言葉も、私たちの常識に挑戦します。「しかし、先頭にいる多くの者は最後になり、最後にいる多く者が先頭になる。」でも、私たちは思います。先頭にいる人はそれなりに努力して、頑張って先頭にいる。先頭にいるものを最後にするなんて、却って不平等で、理不尽なんじゃないか。
ある人は言うかも知れません。いや、先頭にいる人も、自分の力では及ばないたくさんの恵まれた環境があったから頑張れたのであって、最後になってしまった人との実質的な差はないのだ。これまで恵まれてきたのだから、先頭を譲るのは正義に叶っている。それに、どんなに頑張っても最後になってしまう人の見えない頑張りを評価してあげることが大切じゃないか。
しかし、主イエスはそういうことをおっしゃっているのではないと思います。神さまのなさることは、私たちから見たら理不尽です。私たちに神さまの基準や判断を予測したり、決定づけたりまして評価することなんて、そもそもできないことです。神さまの思いや選び、なさることは、私たちの思いや判断としょっちゅう矛盾します。しかし、歴史は私たちの混乱と神さまの摂理によって動いていくのです。私たちが理不尽だとか、受け入れられないと思うところで、実は神さまの御業が進んでいるのではないでしょうか。
私たちが自分の力をふるって自分の目に適う正義を達成すれば、戦争になるしかありません。しかし神さまの御業や神さまのなさることを謙遜に受け止めるならば、そこでこそ「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りの実現を見ることができるのです。
しかし、先頭にいる多くの者は最後になり、最後にいる多く者が先頭になる。(マルコ10:3)
今日の御言葉は、私たちの世界に対する神さまからの問いではないでしょうか。「王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。」私たちの常識に挑戦してくるような言葉です。私たちの世界はこういうふうには動いていません。私たちの世界の現実は、こういうふうにはできていないのです。
しかしそれは、この詩編の言葉が最初に詠まれたときからそうです。それどころか、もっともっと過酷な状況だったはずです。平和な時代に、安全な場所で生み出された言葉ではない。嘆きと悲しみが渦巻く世界の中で、しかし断言します。「王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。」
今朝の新約聖書が伝える主イエスのお言葉も、私たちの常識に挑戦します。「しかし、先頭にいる多くの者は最後になり、最後にいる多く者が先頭になる。」でも、私たちは思います。先頭にいる人はそれなりに努力して、頑張って先頭にいる。先頭にいるものを最後にするなんて、却って不平等で、理不尽なんじゃないか。
ある人は言うかも知れません。いや、先頭にいる人も、自分の力では及ばないたくさんの恵まれた環境があったから頑張れたのであって、最後になってしまった人との実質的な差はないのだ。これまで恵まれてきたのだから、先頭を譲るのは正義に叶っている。それに、どんなに頑張っても最後になってしまう人の見えない頑張りを評価してあげることが大切じゃないか。
しかし、主イエスはそういうことをおっしゃっているのではないと思います。神さまのなさることは、私たちから見たら理不尽です。私たちに神さまの基準や判断を予測したり、決定づけたりまして評価することなんて、そもそもできないことです。神さまの思いや選び、なさることは、私たちの思いや判断としょっちゅう矛盾します。しかし、歴史は私たちの混乱と神さまの摂理によって動いていくのです。私たちが理不尽だとか、受け入れられないと思うところで、実は神さまの御業が進んでいるのではないでしょうか。
私たちが自分の力をふるって自分の目に適う正義を達成すれば、戦争になるしかありません。しかし神さまの御業や神さまのなさることを謙遜に受け止めるならば、そこでこそ「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りの実現を見ることができるのです。